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千年妖狐のあやかし花嫁〜婚約者を後輩に奪われた私が、実家の掟で嫁ぐことになった相手は千年生きた妖狐でした〜  作者: キリーロフロフ


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8/10

第8話:三つ目の顔

 朝、改札を抜けたところで足が止まった。


 昨日の夜、美咲はあたしを見て、何も言わずに通り過ぎた。


 今日、会社で美咲と顔を合わせる。どんな顔をされるんだろう。おはようございますと言われるのか、言われないのか。言われたら、あたしはどっちに転んでも落ち着かない。


 結局、あたしは八時半に着いた。いつもより二十分早い。


 フロアはまだ半分しか埋まっていなかった。窓際のいつもの席に座って、マグカップを出して、それだけで少しほっとした。誰にも会わずに座れた。それが今日の勝ちだ。二十七にもなって、勝ちの基準が低すぎる。


 九時を過ぎて、出社する人が増えてきた。


「おはようございまーす」


 美咲の声がした。


 いつもの声だった。少し高くて、語尾がやわらかい。あの声を聞いた瞬間に、昨日の夜のエントランスが、あたしの記憶の中で急に薄くなった。


 あれ、本当にあったんだっけ。


 こういうところだ。この子の怖いところは。


 あたしは一度も顔を上げなかった。



 十時半ごろ、ラウンジへ行った。


 喉が渇いていた。昨日は噂を聞いてしまって入れなかったから、今日は先に行った。人が増える前なら大丈夫だと思った。


 思ったのに。


 角の手前で、声が聞こえた。


「だから、翔太さんが言ってくれないからでしょ」


 足が止まる。


 美咲の声だった。


 でも、聞いたことのない美咲の声だった。


 高くない。やわらかくもない。語尾が下がっていて、短い。あたしにだけ小声で毒を吐くときの声とも違う。あの声はまだ、湿っていた。この声は乾いている。


「昨日から、ずっと言おうと思ってたけど」


「いや、待って。ここで」


 翔太の声が、明らかに焦っていた。


「じゃあどこで言えばいいんですか。会社では話せない、外でも会えない、何なんですか」


「そういうつもりじゃなくて」


「式場だって、翔太さんが言ってくれるって言いましたよね」


 あたしは、壁の手前で息を止めていた。


「言ったけど、あんな流れになったら」


「私のせいですか」


「そうは言ってない」


「じゃあ誰のせいですか」


 水が落ちる音がした。誰かがサーバーを使ったんじゃない。たぶん、翔太が持っていた紙コップを置いた音だ。


 ガラスのパーテーション越しに、少しだけ見えた。


 美咲が、翔太を見上げていた。


 上目遣いだった。角度はいつもと同じだ。眉も少し下がっている。なのに、まるで違って見えた。あの顔は、お願いしている顔じゃない。


 逃がさない顔だった。


 翔太は、半歩下がっていた。


 三年つきあった男が、半分の年月も一緒にいない女の前で、半歩下がっている。


 あたしは、笑いそうになった。


 ざまあみろ、と思った。


 思った瞬間に、喉の奥が冷たくなった。


 いま、あたし、何を思った。


「翔太さん」


 美咲の声が、急にやわらかくなった。


「困らせてごめんなさい。でも私、翔太さんに嫌われたら、この会社に居場所ないんです」


 切り替えが速い。三秒もかかっていない。


 翔太が何か言おうとして、言葉を探しているのが、後ろ姿でも分かった。あの人はいつもそうだ。強く出られると、まず自分が悪いところを探しに行く。


 あたしのときも、そうだった。


 あの子が泣いた。だから翔太は、あたしの中に悪いところを探した。探せば、見つかる。誰にでも見つかる。


 あたしは、見つけられた側だ。


 喉が渇いていたことを、忘れていた。


 戻ろうとして、足の裏がタイルを擦った。


 小さい音だった。あたしにしか聞こえないくらいの。


 美咲が、こっちを見た。


 目が合った。


 昨日の夜と同じ目だった。何も乗っていない。驚きもしないし、慌てもしない。あたしがそこにいることを、たぶん最初から知っていた。


 三秒。


 それから、美咲はゆっくり眉を下げて、いつもの顔に戻った。


 翔太が、美咲の視線を追って振り向いた。


 目が合った。


 あたしと、翔太が。


 二週間ぶりだった。ちゃんと目を見たのは。


 会社の前で車から降りたあの日も、こっちを見ていたけど、あれはあたしじゃなくて、あたしの隣にいた男を見ていた。


 いまは、あたしを見ている。


 翔太の顔に、何かが浮かんだ。


 困った顔だった。それから、少しだけ、助けてほしそうな顔になった。


 あたしは、動けなかった。


 助けてあげたいと思ったわけじゃない。


 でも、体のどこかが、勝手に反応した。三年ぶんの、癖みたいなものだった。この人が困っていたら、あたしが支えてあげる。あたしが空気を柔らかくする。あたしが笑って、翔太の言いたいことをうまく伝えて。ずっとそうしてきた。


 半歩、前に出そうになった。


 自分で自分に驚いて、あたしは踵を返した。


 早足で戻る。誰の顔も見なかった。


 席に着いて、モニターを見て、それから両手で顔を覆った。


 いま、何をしようとした。


 あの人はあたしを捨てた人だ。あたしを嘘つきにした人だ。あの子が泣いたというだけで、あたしの三年を全部なかったことにした人だ。


 分かってる。ぜんぶ分かってる。


 分かってるのに、あの人が困った顔をした瞬間、あたしの体は前に出ようとした。


 好きとか、そういうのじゃない。もっと悪い。


 癖だ。


 三年かけて作った、あたしの姿勢の癖だ。


 こんなの、爪の色みたいに塗り替えられない。


 しばらくして、あたしは顔を上げた。


 斜め向かいの席で、美咲がキーボードを打っていた。何事もなかったみたいに。ときどき、隣の女子社員と笑っていた。


 あの子は、いま、ぜんぶ持っている。


 あたしの婚約者。あたしの案件。あたしの式場。あたしがいた場所。


 それでも足りないから、翔太を追い詰めていた。


 あたしは、そこで初めて分かった気がした。


 この子は、翔太が好きなんじゃない。


 誰かから奪ったものだけが、この子にとって価値がある。


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