第8話:三つ目の顔
朝、改札を抜けたところで足が止まった。
昨日の夜、美咲はあたしを見て、何も言わずに通り過ぎた。
今日、会社で美咲と顔を合わせる。どんな顔をされるんだろう。おはようございますと言われるのか、言われないのか。言われたら、あたしはどっちに転んでも落ち着かない。
結局、あたしは八時半に着いた。いつもより二十分早い。
フロアはまだ半分しか埋まっていなかった。窓際のいつもの席に座って、マグカップを出して、それだけで少しほっとした。誰にも会わずに座れた。それが今日の勝ちだ。二十七にもなって、勝ちの基準が低すぎる。
九時を過ぎて、出社する人が増えてきた。
「おはようございまーす」
美咲の声がした。
いつもの声だった。少し高くて、語尾がやわらかい。あの声を聞いた瞬間に、昨日の夜のエントランスが、あたしの記憶の中で急に薄くなった。
あれ、本当にあったんだっけ。
こういうところだ。この子の怖いところは。
あたしは一度も顔を上げなかった。
十時半ごろ、ラウンジへ行った。
喉が渇いていた。昨日は噂を聞いてしまって入れなかったから、今日は先に行った。人が増える前なら大丈夫だと思った。
思ったのに。
角の手前で、声が聞こえた。
「だから、翔太さんが言ってくれないからでしょ」
足が止まる。
美咲の声だった。
でも、聞いたことのない美咲の声だった。
高くない。やわらかくもない。語尾が下がっていて、短い。あたしにだけ小声で毒を吐くときの声とも違う。あの声はまだ、湿っていた。この声は乾いている。
「昨日から、ずっと言おうと思ってたけど」
「いや、待って。ここで」
翔太の声が、明らかに焦っていた。
「じゃあどこで言えばいいんですか。会社では話せない、外でも会えない、何なんですか」
「そういうつもりじゃなくて」
「式場だって、翔太さんが言ってくれるって言いましたよね」
あたしは、壁の手前で息を止めていた。
「言ったけど、あんな流れになったら」
「私のせいですか」
「そうは言ってない」
「じゃあ誰のせいですか」
水が落ちる音がした。誰かがサーバーを使ったんじゃない。たぶん、翔太が持っていた紙コップを置いた音だ。
ガラスのパーテーション越しに、少しだけ見えた。
美咲が、翔太を見上げていた。
上目遣いだった。角度はいつもと同じだ。眉も少し下がっている。なのに、まるで違って見えた。あの顔は、お願いしている顔じゃない。
逃がさない顔だった。
翔太は、半歩下がっていた。
三年つきあった男が、半分の年月も一緒にいない女の前で、半歩下がっている。
あたしは、笑いそうになった。
ざまあみろ、と思った。
思った瞬間に、喉の奥が冷たくなった。
いま、あたし、何を思った。
「翔太さん」
美咲の声が、急にやわらかくなった。
「困らせてごめんなさい。でも私、翔太さんに嫌われたら、この会社に居場所ないんです」
切り替えが速い。三秒もかかっていない。
翔太が何か言おうとして、言葉を探しているのが、後ろ姿でも分かった。あの人はいつもそうだ。強く出られると、まず自分が悪いところを探しに行く。
あたしのときも、そうだった。
あの子が泣いた。だから翔太は、あたしの中に悪いところを探した。探せば、見つかる。誰にでも見つかる。
あたしは、見つけられた側だ。
喉が渇いていたことを、忘れていた。
戻ろうとして、足の裏がタイルを擦った。
小さい音だった。あたしにしか聞こえないくらいの。
美咲が、こっちを見た。
目が合った。
昨日の夜と同じ目だった。何も乗っていない。驚きもしないし、慌てもしない。あたしがそこにいることを、たぶん最初から知っていた。
三秒。
それから、美咲はゆっくり眉を下げて、いつもの顔に戻った。
翔太が、美咲の視線を追って振り向いた。
目が合った。
あたしと、翔太が。
二週間ぶりだった。ちゃんと目を見たのは。
会社の前で車から降りたあの日も、こっちを見ていたけど、あれはあたしじゃなくて、あたしの隣にいた男を見ていた。
いまは、あたしを見ている。
翔太の顔に、何かが浮かんだ。
困った顔だった。それから、少しだけ、助けてほしそうな顔になった。
あたしは、動けなかった。
助けてあげたいと思ったわけじゃない。
でも、体のどこかが、勝手に反応した。三年ぶんの、癖みたいなものだった。この人が困っていたら、あたしが支えてあげる。あたしが空気を柔らかくする。あたしが笑って、翔太の言いたいことをうまく伝えて。ずっとそうしてきた。
半歩、前に出そうになった。
自分で自分に驚いて、あたしは踵を返した。
早足で戻る。誰の顔も見なかった。
席に着いて、モニターを見て、それから両手で顔を覆った。
いま、何をしようとした。
あの人はあたしを捨てた人だ。あたしを嘘つきにした人だ。あの子が泣いたというだけで、あたしの三年を全部なかったことにした人だ。
分かってる。ぜんぶ分かってる。
分かってるのに、あの人が困った顔をした瞬間、あたしの体は前に出ようとした。
好きとか、そういうのじゃない。もっと悪い。
癖だ。
三年かけて作った、あたしの姿勢の癖だ。
こんなの、爪の色みたいに塗り替えられない。
しばらくして、あたしは顔を上げた。
斜め向かいの席で、美咲がキーボードを打っていた。何事もなかったみたいに。ときどき、隣の女子社員と笑っていた。
あの子は、いま、ぜんぶ持っている。
あたしの婚約者。あたしの案件。あたしの式場。あたしがいた場所。
それでも足りないから、翔太を追い詰めていた。
あたしは、そこで初めて分かった気がした。
この子は、翔太が好きなんじゃない。
誰かから奪ったものだけが、この子にとって価値がある。




