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千年妖狐のあやかし花嫁〜婚約者を後輩に奪われた私が、実家の掟で嫁ぐことになった相手は千年生きた妖狐でした〜  作者: キリーロフロフ


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第7話:噂は、勝った女にこそ回る

 その言い方が、頭の中でゆっくり形になった。


 この人は、あたしを守らない。守れないんじゃなくて、守らない。あたしが自分で言うのを、待っている。


 それは、突き放されているようで。


 誰にも、期待されたことのない種類の期待だった。


「重いんですけど」


「重いか」


「重いです」


「では、飯を食え。腹が減ると牙が鈍る」


「話が急に雑になった」


 会社の前で車が停まった。


 はくは降りなかった。ドアを開けに来ることもしない。それがありがたかった。昼にもう一度あの絵をやられたら、たぶん午後は席に座れない。


「夕方まで、どうするんですか」


「東京を見る」


「四百三十年ぶりに?」


「四百三十余年だ」


「そこ細かいんだ」


 車が滑り出していく。


 あたしは、一度だけ深呼吸をして、ビルのエントランスをくぐった。



  *



 午後のフロアは、朝と空気が違っていた。


 朝は、誰もあたしを見なかった。いまは、みんなが見ている。


「リリンさーん」


 席に着くより先に、営業チームの後輩たちが寄ってきた。二人。目がきらきらしている。


「さっきの人、誰ですか」


「え」


「白い髪の。すごい車の」


「あー……」


「彼氏ですか?」


 答えられなかった。


 彼氏じゃない。婚約者でもない。見合い相手です、と言ったら、この子たちはどんな顔をするんだろう。実家の掟で決まった許嫁です、と言ったら。昨日初めて会いました、と言ったら。


「知り合い」


 いちばん嘘に近い、本当のことを言った。


「えー、何それ。紹介してくださいよ」


「そう、紹介。お願いします」


 二人とも、悪気がない。


 それが、いちばん困る。怒られているなら怒り返せる。でも、この子たちはただ、いい男を見てはしゃいでいるだけだ。あたしがここで曖昧に笑うと、それは「もったいぶっている女」になる。はっきり断ると「独り占めしたい女」になる。


「今度ね」


 結局、いちばん言ってはいけない返事をした。


 二人が笑って離れていく。その背中を見ながら、あたしは自分の机を見た。


 今朝出したままのマグカップ。「リリン」のシール。


 昼まで、あたしは一人でここに座っていた。それが急に、遠い出来事に思える。



 三時前、給湯室に行った。


 角を曲がる直前で、声が聞こえた。


「別れて二週間だよね」


「うん」


「切り替え、早くない?」


 足が止まった。


「ていうか、前から知り合いだったんじゃない? あんな人、二週間で捕まえられないでしょ」


「あー……たしかに」


「じゃあ、翔太さんのほうが可哀想じゃん」


 水の音がして、それきり話は別のことに移った。


 あたしは給湯室に入らずに、そのまま戻った。


 喉は渇いていた。渇いていたけど、いま入っていったら、あの二人が気まずい顔をするんだろう。気まずい顔をさせたら、明日は「聞かれて怒ってた」になる。


 席に戻って、モニターを見た。


 文字が入ってこない。


 二週間前、あたしは捨てられた女だった。可哀想な人だった。誰も面と向かって言わないけど、そういう扱いだった。


 昨日までは、それでよかった。


 いまは違う。いい男が迎えに来た瞬間に、あたしは「切り替えの早い女」になった。「前から手を回していた女」になった。「翔太を可哀想にした女」になった。


 何も言っていないのに。


 三年前から何も変わっていないのに。


 本当のことを言うほど、あたしのほうが嘘つきになる。


 あの形が、また始まっている。今度は、あたしが幸せそうに見えたせいで。



 夕方近く、上長のところへ行った。


 Mファイナンスの件だった。今朝、美咲が勝手に引き継いだやつ。戻してもらうつもりだった。あの案件は半年かけて指名で取ったもので、進行だってこっちが全部作ってある。


「ああ、あれね」


 上長はモニターから目を離さずに言った。


「先方ももう美咲さんと話しちゃってるから、そのままでいこう」


「でも、あたし、引き継ぎはいらないって」


「でも実際、休んだでしょ」


 有給です、と言いかけて、やめた。


 言ったら、休んだ人間が休みの回数を数えている絵になる。


「分かりました」


 自分の声が、思ったより平らだった。


「稲荷さんも、今いろいろ大変でしょ。無理しないでいいから」


 いろいろ。


 あたしの何を知ってるんだろう、この人は。


 でも、たぶん知っている。この会社の全員が、あたしの三年と二週間を、それぞれの好きな形で知っている。



 席に戻る途中で、目が合った。


 美咲だった。


 斜め向かいの席から、こっちを見ていた。泣きそうな顔でもない。困った顔でもない。眉も下がっていない。


 何も乗っていない顔だった。


 あたしが見返しても、逸らさなかった。三秒か、四秒か。それからゆっくりモニターに戻って、何事もなかったみたいにキーボードを打ち始めた。


 背中に、汗が伝った。


 毒を吐かれたほうがましだった。言葉なら、覚えていられる。言い返す準備もできる。


 見られているだけだと、何も残らない。


 残らないのに、ずっとそこにある。



 席に着いて、あたしは手を止めた。


 机の上に、缶コーヒーが置いてあった。


 微糖。まだ温かい。


 誰の姿もなかった。周りを見回しても、みんな自分のモニターを見ている。目が合う人もいない。


「……誰」


 小さく言ったけど、誰も答えなかった。


 あたしはしばらく缶を見て、それから両手で持った。手のひらが温かくなる。


 昼に泣いたばかりなのに、また目の奥が熱くなって、あたしは慌てて天井を見た。


 こういうのが、いちばんずるい。


 誰かは分からない。かばってもくれない。噂を止めてもくれない。ただ、コーヒーを置いていっただけの人。


 それでも、全員が敵ではないと分かるだけで、息が半分できる。



  *



 その日、あたしは残業した。


 仕事があったわけじゃない。Mファイナンスの大型案件は取り上げられたし、残りの作業は明日でも間に合う。ただ、部屋に帰りたくなかった。あの部屋には、式場のパンフレットがまだ開いたまま置いてある。


 二十時を過ぎて、フロアの照明が半分落ちた。


 人はほとんど残っていない。遠くでコピー機が動いている音がして、それも止まった。


 あたしは帰り支度をして、エレベーターホールへ行った。


 下りのボタンを押す。


 箱が来た。誰も乗っていない。


 乗って、一階のボタンを押した。扉が閉まる。


 鏡みたいな扉に、あたしが映る。明るい髪。いつものジャケット。赤い爪。今朝、駅ビルのガラスに映ったときは、昨日より少しましだと思った。いまは、少し疲れた顔をしている。


 三階分ほど下がったところで。


 あたしの後ろに、誰かが立っていた。


 あたしの肩より、少し低い。顔のあたりは見えない。輪郭が水に落とした墨みたいに滲んでいて、そこだけ扉の光を返していなかった。手を伸ばせば触れる距離に、それは立っていた。


 息が止まった。


 逃げなきゃ、とは思わなかった。体が動かなかったから、思う暇もなかった。指先が冷たくなって、爪が手のひらに食い込んだ。それでも痛くなかった。


 あたしは、扉の中のそれを見ていた。


 それも、あたしを見ていた。


 顔がないのに、分かった。それは、鏡の中のあたしの顔ではなく、目を見ていた。


 その瞬間に、頭の中が真っ白になった。


 見えているのが、ばれている。


 子どもの頃、笑われてから、あたしはずっと見えないふりをしてきた。目の端に入っても顔を動かさない。声がしても振り向かない。二十七年、それで通してきた。あたしが見えていることを、この世の誰も知らないはずだった。


 なのに、これは知っている。


 あたしが見えていることを、知ったうえで、そこに立っている。


 喉の奥で音が鳴った。


 振り向いた。


 誰もいない。


 箱の中は空だった。あたし一人で、壁があって、それだけだった。


 もう一度、扉を見る。


 映っているのは、あたしだけだった。


 階数の表示が、二、一、と落ちていく。その数字を見ていられなくて、あたしはボタンの並びだけを見ていた。


 一階に着いて、扉が開いた。


 あたしは、たぶん普通じゃない速さで外へ出た。


 エントランスを抜ける。夜の空気が冷たい。ビルの前の車寄せは、昼の騒ぎが嘘みたいに空いていた。


 心臓が、まだ速い。


 膝に手をついて、二度、深く息をした。


 背中のほうで、小さな電子音がした。


 もう一基のエレベーターが、一階に着いた音だった。


 振り返る。


 扉が開いて、美咲が降りてきた。


 カーディガンを腕にかけて、いつもの紙袋を持っていた。残業していたらしい。それだけの姿だった。


 美咲は、あたしを見た。


 昼間なら、ここで「リリン先輩」と言う。眉を下げて、大丈夫ですかと言う。何もなくても言う。


 言わなかった。


 立ち止まりもしなかった。ただ、歩きながらこっちを見て、通り過ぎるまで、一度も目を逸らさなかった。


 声も、表情も、何も乗っていなかった。


 自動ドアが開いて、閉まった。


 美咲の背中が、駅のほうへ歩いていく。夜の歩道で、その姿は普通の後輩にしか見えなかった。


 あたしはその場から動けなかった。


 さっき、鏡に映っていたもの。


 あれは。


 いや、違う。人だし。あの子は人だし。二十四歳の、後輩だし。


 でも、あたしの肩より、少し低かった。


 考えるのをやめた。やめたのに、腕の産毛が立ったままだった。


 誰かに言いたかった。


 いま、エレベーターで、後ろに誰かいた。振り向いたらいなかった。ねえ、聞いて。


 言える相手を、頭の中で探した。


 母。無理だ。怜。鼻で笑われる。会社の誰か。明日、噂がひとつ増えるだけだ。翔太。


 ……翔太は、二十七年ぶんの中で、いちばん信じてくれなかった人だ。


 一人だけいた。


 嘘つき、と言わなかった人。


 あたしはバッグからスマホを出して、開いて、それから、手が止まった。


 連絡先を、聞いていない。


 昨日から今日にかけて、あの人はあたしの前に二度現れて、二度とも勝手に来た。名前しか知らない。番号も、アプリのIDも、住所も、山奥の屋敷の場所さえ、あたしは自分では辿り着けない。


 この世でただ一人、あたしの話を信じる人と、あたしはつながっていない。


 スマホの画面が、勝手に暗くなった。


 黒くなったガラスに、あたしの顔が映る。


 その後ろには、誰もいなかった。


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