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千年妖狐のあやかし花嫁〜婚約者を後輩に奪われた私が、実家の掟で嫁ぐことになった相手は千年生きた妖狐でした〜  作者: キリーロフロフ


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第6話:みじめなのに、おいしい

「どこへ行く」


 はくが、前を見たまま言った。


「どこでもいいですか」


「凛がいつも昼飯を食べている店がいい」


 ハンドルに置いた指が長い。骨ばっているのに、荒れていない。昨日の座敷で見たときと同じ手が、いま普通に車を運転している。それがいちばん現実味がない。


「じゃあ、次の信号を左で」


 言ってから、少し後悔した。


 ビルの裏の細い道に入って、コインパーキングにこの車を突っ込むことになる。周りは配送用の軽自動車や営業車ばかりだ。案の定、精算機の前を通ったおじさんが二度見した。はくは気にしていない。というより、たぶん見えていない。


「ここです」


 三丁目の定食屋だった。


 入口の脇に、色の褪せたサンプルケースがある。看板の字は油で少し茶色い。夜遅くまで残業していた頃、二十二時までやっているのがここしかなくて、よく来た。翔太と来たことはない。ここは、あたしが一人で入る店だった。


 引き戸を開けると、テレビの音と、揚げ物の匂いが一緒に出てきた。


「いらっしゃい」


 カウンターの奥から、おばちゃんの声。顔を上げて、あたしを見て、それからはくを見た。


「あら。久しぶり」


「どうも」


 それだけだった。深く聞かない。ここのおばちゃんは昔からそうだ。


 奥のテーブルに座った。はくは黒い羽織を着ているわけでもないのに、この店の中では明らかに浮いている。白い髪が、蛍光灯の下でよけいに白い。


「日替わり、二つ」


 あたしが言うと、はくが少しだけこちらを見た。


「勝手に決めましたけど」


「教えろと言ったのは俺だ」


 しばらくして、盆が二つ来た。


 焼き魚。ほうれん草。味噌汁。白いご飯。


 湯気が上がっている。


 あたしは箸を持って、それから、持ったまま止まった。


 味噌汁の椀の縁に指を当てる。熱い。それは分かる。分かるのに、食べるという次の動作に、体がつながらない。


 この二週間、何を食べたか思い出せなかった。バーでナッツをつまんだ。コンビニのゼリーを飲んだ。会社の給湯室で、誰かがくれたクッキーを一枚。それくらいだ。腹が減らないわけじゃない。減っているのは分かる。ただ、口に入れるところまでが遠い。


 はくは、食べていなかった。


 箸も持っていない。ただ、あたしの手元を見ている。


「食え」


「……食欲ないんですけど」


 はくは答えなかった。


 目も逸らさなかった。急かしもしない。ただ、待っている。この人はたぶん、あたしが食べるまでこのままでいる。千年待ったとか言い出しかねない顔をしている。


 むかついて、あたしはご飯を一口だけ食べた。


 嫌がらせのつもりだった。ほら、食べましたよ、これでいいでしょ、と言うつもりだった。


 噛んだ瞬間に、喉が鳴った。


 白いご飯が、甘い。


 次の一口は、自分でも意味が分からないくらい早かった。味噌汁を飲んだ。熱くて、舌の奥が痛くなって、それでも止まらなかった。魚の身を崩す。骨を外すのがもどかしい。ほうれん草の器を持ち上げる。


 二週間ぶんの空腹が、いま急に追いついてきた。


 三口目を過ぎたあたりで、鼻の奥がつんとした。


「……あれ」


 箸を持ったまま、あたしは口を押さえた。


 やばい。やばい。ここ、店。


 息を吸ったら、変な音が出た。ひゅっ、と喉が鳴って、そのまま戻ってこない。次の息を吸おうとしたら、もっと大きな音になった。


 ぽたっと涙が味噌汁の中に落ちた。


「困ると言ったはずだ」


 はくの声だった。


「うっ……じゃあ、見ないでください」


「見る」


 その一言で、決壊した。


 箸がお盆の上に落ちた。声が漏れた。押さえてるのに、指の隙間から声と涙が出てくる。子どもみたいな、みっともない、しゃくりあげる声だった。肩が勝手に動く。息が継げない。鼻をすする音が自分の耳の中で大きく響いて、それが恥ずかしくて、余計に止まらなくなった。


 あたしは片手で顔を覆ったまま、もう片方の手で箸を握って、それでも食べるのをやめなかった。ご飯を口に入れて、噛んで、飲み込んで、また泣いた。飲み込むたびに喉が痛かった。


 みじめだ。


 みじめなのに、おいしい。


 おばちゃんは、カウンターの奥でテレビを見ていた。常連のおじさんは新聞をめくっていた。誰も、こっちを見ていない。いつの間にか、テレビの音も、店の喧騒も聞こえなくなっていた。


 この二週間、あたしは自分がちゃんと生きていたつもりだった。会社に行った。仕事をした。ネイルも塗り直した。ぜんぶ、やった。やったのに!


 一緒に食事をする相手がいることに、こんなにも心が救われるなんて。


 はくが、上着の内側へ手を入れた。


 卓の上に、白いものが置かれた。


 布だった。ハンカチ、と呼ぶには少し大きい。真っ白で、四つに畳まれていて、折り目が固い。角に細い刺繍が一本だけ入っている。何の模様かは分からない。


 差し出されたわけじゃなかった。あたしの手のそばに置いて、それだけだった。はくはもう、こちらを見ていない。自分の箸を取って、静かに食べ始めていた。


 可哀想だとも、頑張ったなとも言わなかった。手も握らない。顔も見ない。


 あたしはしばらく、その布を見ていた。


 それから、取った。


 顔に当てた瞬間、匂いがした。


 甘くない香の匂いだった。


 昨日の廊下だ。磨かれた木と、庭からの薄い光と、人の気配だけが薄い、あの座敷。この布は、あそこにあったものだ。


 今朝この人が家を出るとき、これを袂に入れた。


 もしかしたら、あたしが泣くと思って持ってきたんだろう。


 そう考えたら、また涙が溢れてきた。あたしは布を顔に押しつけて、今度は隠すのをやめた。


 あたしが泣いているあいだ、この人はずっと、普通に食事をしていた。


 それが、いちばん助かった。


 泣きやんだ頃には、テレビの音や店の喧騒が戻っていた。


 昼のワイドショーで、誰かが大げさに笑っていた。おばちゃんが揚げ物を鍋に落とす音がして、油がはねた。おじさんが新聞をたたんで、湯呑みを持ち上げた。


 さっきまで、この音が全部なかった。


 ……なかった、と思う。泣いていたから聞こえなかっただけかもしれない。人は泣いているとき、そういうふうになるのかもしれない。


 あたしは、そういうことにした。


 子どもの頃から、ずっとそうしてきた。


 半分ほど食べたところで、はくが顔を上げた。


「悪くない」


「そうでしょ」


 鼻声のまま、あたしは言い返した。


「ここ、二十二時までやってるんです。あたし、残業のとき、ずっと」


「一人でか」


「一人ですけど」


「そうか」


 はくは、それきり何も聞かなかった。


 聞かないでいてくれるのが、話すより楽だった。



  *



 帰りの車の中で、あたしはようやく、言うつもりだったことを思い出した。


「あの」


「何だ」


「なんで、何も言わなかったんですか」


 窓の外を、昼のオフィス街が流れていく。


「会社の前で。美咲があんなこと言ったとき。あなた、一言も」


「ああ」


「ああ、じゃなくて」


 はくは、少しのあいだ黙っていた。信号が赤になって、車が止まる。


「終わったのは、あの場だ」


 低い声だった。


「明日も、あの女はいる。俺が黙らせた女に、明日おまえは何を言う」


 言葉に詰まった。


「俺が言えば、噂の形が変わるだけだ。怖い男に守られている女になる」


 分かってる。


 分かってるけど。


「……ずるい」


「そうか」


「あなたは正しいことを言ってるだけで、あたしは今から一人で戻るんですよ」


 言ってから、子どもみたいだと思った。


 はくは怒らなかった。信号が変わって、車がまた動き出す。


「俺は、おまえの代わりに噛みつく気はない」


「はっきり言いますね」


「凛には牙がある。使っていないだけだ」


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