第5話:ランチタイムの派手な外車
「凛。迎えに来た。東京の昼飯を、俺に教えろ」
はくは、会社前の車寄せで、当たり前みたいにそう言った。
当たり前じゃない。昨日、山奥の屋敷で見合いをした相手が、翌日の昼に、都心のオフィスビルの前へワインレッドの外車で乗りつけてくるなんて、全然当たり前じゃない。しかも、白い髪。黒い服。低い声。昼休みでざわつくビル前に立っているのに、そこだけ古い映画の一場面みたいに浮いている。
いや、浮きすぎ。
「なんで来たんですか。っていうか、東京へ戻れって言ったの、あなたですよね」
やっと出た声は、自分でも分かるくらい裏返っていた。
「戻れとは言った。見に来るなとは言っていない」
「屁理屈」
「凛がいつも食べている昼飯を食う」
「いや、普通にコンビニで済ませるつもりでしたけど。昨日、東京の食事は知らないみたいなこと言ってませんでした?」
「この地なら、四百三十余年前に来た」
「四百……!?」
「家康らが、ここに都を造ると言い出した頃だ。物見遊山にな。たしか江戸とか言ってたな」
「それ、東京に来たって言っていいんですか。理屈が雑」
あたしがそう言うと、はくはほんの少し目を細めた。その顔を見て、周りの空気が一段変わった。
「え、ちょっと待って、顔が良すぎない?」
「モデル?」
「俳優じゃない?」
「迎えって言った?」
ランチに出ようとしていた女子社員たちが、声を潜めきれていない。視線が車に行き、はくの顔に行き、最後にあたしへ戻ってくる。
「ねえ、あの車、いくらすると思う」
「知らないけど、たぶん家より高い」
「ナンバー、一桁だよ」
誰も、前に進まなくなっていた。
昼休みのビル前で、人の流れというのは止まらない。みんな時間がないから、よそ見をしても足は動く。それが、いま、止まっている。歩道側からも人が来て、そのまま立ったまま、こっちを見ている。
さっきまでのあたしは、捨てられて出社してきた女だった。いまは、何だか分からない男に迎えに来られた女になっている。その変化が分かってしまう自分が少し嫌で、それでも、少しだけ息がしやすくなった。
いや、少しじゃない。
正直に言うと、あたしはいま、この状況をちょっと嬉しいと思っている。
朝、誰もあたしと目を合わせなかった。おはようが薄かった。誘われなかった。それが全部、この十秒でひっくり返っている。見せつけたい、と思ってしまった自分に気づいて、あたしは自分に少しがっかりした。
そんなことのために誰かを使う女には、なりたくなかった。
なりたくなかったのに、胸のどこかが、明らかに軽くなっていた。
はくは、周りの視線を気にしていない。向けられることに慣れすぎていて、視線を視線として数えていないみたいだった。ただ、あたしの前で立ち止まった。
立ち止まった位置が、少し遠かった。
手を伸ばせば届く距離ではない。あと半歩で、腕を掴める距離。そこで止まって、それ以上は来ない。
二週間前まで、あたしの隣にいた男は、人前でよく肩に手を回した。あれは、あたしのためじゃなくて、周りに見せるためだった。いまなら分かる。
この人は、触らなかった。
「顔色が悪い」
「ちょっと。第一声、それですか」
「朝よりはましだ」
朝。
あたしは今朝の顔を、この人に見せていない。
「褒めてるんですか」
「褒めている」
「ほんとに分かりにくい」
言い返しながら、胸の奥が少しだけほどける。はくの視線が、あたしの手元へ落ちた。
「ネイル。塗り直したな」
「見ます? 普通」
「良い色だ」
そういうところ。腹が立つのに、赤い爪を隠す気にはならなかった。
はくが車の助手席側へ回ったとき、白い髪の後ろで何かが動いた。
耳?
まばたきをすると、もうただの髪だった。屋敷の座敷と同じだ。
助手席のドアが開く。引っ張られたわけじゃない。腰に手を回されたわけでもない。ただ、開けて、待っている。その待ち方が、また目立った。
「え、乗るの?」
「迎えに来たってこと?」
「リリンさん、あんな人いたの?」
「ドア開けて待ってる姿、やば!かっこいい!」
「てか、急かさないんだね」
その一言が、いちばん刺さった。
はくは、急かしていない。ドアを押さえたまま、あたしが動くのを待っている。早く乗れとも言わないし、こっちを見て催促もしない。ただ、開けている。
あたしだって知らない。昨日会ったばかりです、と言ったら、この空気はどうなるんだろう。もっと悪くなるのか、もっと面白がられるのか。どっちにしても面倒だ。
そして、その視線の中に、美咲がいた。
美咲は、はくを見ていた。翔太を見るときの甘えるような目でも、先輩たちに守られるときの困ったような目でもない。知らないものを見つけた子どもみたいで、欲しいものを見つけた女みたいだった。
それから車を見た。磨き込まれたワインレッドの車体。黒い革の内装。ドアを押さえる長い指。最後に、美咲の視線があたしへ戻る。
はく。
車。
あたし。
その順番が、嫌だった。
翔太は、美咲の少し後ろに立っていた。さっきまでスマホを見ていた顔が、今は完全に固まっている。二週間前まで、その顔があたしの婚約者だった。
スマホを持ち替えていた。
両手で持って、画面も見ていないのに、指だけが縁をなぞっていた。あの癖を知っている。焦っているとき、この人は必ず手の中の何かを触る。会議で詰められたときも、あたしと揉めたときも、そうだった。
三年つきあうと、そういうことばかり覚えている。
翔太が、周りを一度ちらっと見た。誰が見ているかを確かめる目だった。
美咲の視線が、もう一度はくへ戻る。ほんの少し、首を傾げた。翔太に甘えるときと同じ角度で、その先にいたのは翔太じゃない。
嫌なものを見た、と思った。
「凛」
はくが呼んだ。
「乗らぬのか」
「乗る前提なのが怖いんですけど」
「昼を食うのだろう」
「食べますけど、いきなりこの車で会社前から出るのは」
「問題があるのか」
ありすぎる。でも、ないと言えばない。会社の前で誰の車に乗ろうが、あたしの勝手だ。翔太の車なら問題にならず、はくの車なら噂になる。その差が、もうすでに腹立たしい。
乗ったら、たぶん明日から何か言われる。
乗らなかったら、あたしは今日も一人でコンビニへ行って、人の少ない場所を探して、そこで昼を食べる。それが、この二週間ずっとやってきたことだ。
どっちも、めんどくさい。
でも、めんどくさいのが二つあるなら、まだ知らないほうを選びたかった。
あたしは一歩だけ、はくのほうへ歩いた。周囲のざわめきが大きくなる。美咲の笑顔が、かすかに固まった。
「凛」
翔太が、ようやく声を出した。その呼び方に、少しだけ胸が痛んだ。けれど、前ほどではなかった。
「その人、誰」
あたしが答える前に、はくが翔太を見た。見ただけだった。それだけで、翔太の肩がほんの少し引いた。
「千年あまり、同じ顔を見てきた」
「は!?」
「女を捨てる男は、みな同じ角度で顎を引く」
「……はく」
思わず止めた。会社前で何を言うつもりだ、この人は。
はくはあたしを見る。怒ってはいない。むしろ、あたしが止めるのを待っていたみたいな顔だった。
「天城はく」
短く名乗った。それだけなのに、女子社員たちの中でまた小さな声が上がる。
「天城?」
「え、あの車、買える人?」
「リリンさん、何者?」
何者でもない。今朝まで、社内チャットで空気を悪くしている女だった。それなのに、たった一台の車と、たった一人の男で、あたしを見る目が変わっていく。
薄っぺらいのに、効いた。
美咲が一歩、前へ出た。
「リリン先輩」
声は、いつもの声だった。少し心配そうで、少し怯えていて、周りに守られやすい声。
「大丈夫ですか? その方、昨日のお見合いの……相手の方ですか?」
お見合い。
その言葉に、周りが反応した。翔太の顔がこわばる。女子社員たちが、はくとあたしを見比べる。美咲は眉を下げた。
「実家の人に、連れていかれたって聞いて。私、心配で」
ここで怒ったら、負ける。
怒っていいはずなのに、怒った顔をした瞬間、あたしだけが悪者になる。
あたしは赤い爪を、軽く握った。
「心配してくれてありがとう」
自分で言って、少しだけ驚いた。声は震えていなかった。
美咲の目が、ほんの少しだけ細くなる。
「でも、あたしが探した式場を勝手に使う話は、会社の前ですることじゃないよ」
空気が止まった。
誰かが、小さく言った。
「式場を譲る?」
その声が、ビル前のざわめきの中で妙にはっきり聞こえた。
翔太が顔色を変えた。
「凛、それは」
言いたいことは、まだ十も二十もあった。美咲があの会場を気に入っていること。譲る形にしてくれと書いてきたのが誰なのか。みんな丸く収まるという言葉の中に、あたしだけ入っていなかったこと。
でも、ここで全部出したら、美咲は泣く。翔太は美咲を庇う。周りはまた、あたしを見る。言いすぎた女として。捨てられたのに、まだ怒っている女として。
それは、今朝のラウンジと同じ形だった。同じ負け方をするのは、嫌だった。
美咲が、紙袋の持ち手をぎゅっと握った。白い指の先が、少しだけ赤くなる。それでも顔は、泣きそうなままだった。
「私」
小さな声だった。周りが、美咲を見る。
「私、式場を奪いたいなんて言ってません」
声が震えていた。
震えているのに、目だけはあたしを見ていた。
「凛」
はくが、車のほうへ視線を落とした。
「昼が終わる」
あたしは、乗った。
シートが体を包み込む。革の匂い。低い天井。ドアが閉まると、外のざわめきが急に遠くなった。窓の向こうで、美咲が何か言っている。口だけが動いて、声は聞こえない。
座面が、思っていたより低かった。腰を落とすというより、床に近いところへ滑り込む感じで、目線が歩道の人の膝のあたりにある。ダッシュボードの縫い目が、指で押すと少しだけ沈んだ。
この二週間、あたしがいた場所を思い出した。バーのスツール。会社の椅子。電車の座席。どれも、座ると背中が丸くなる場所だった。
ここは、背中が伸びる。
はくが運転席に乗り込んで、ドアを閉めた。
狭かった。
二人しか乗れない車だから、当たり前だ。当たり前なんだけど、肘を置く場所が同じ高さにあって、この人の腕が、あたしの腕のすぐ横にある。
昨日、山の座敷では、畳一枚ぶん離れて座っていた。
あたしは、なるべく窓のほうを向いた。
エンジンがかかった。腹の底に響く音だった。
「あの、免許は」
「ある」
「え、どうやって」
「役所は、書類さえ揃えば人を疑わん」
「今の、聞かなかったことにしますね」
車が滑り出す。ビル前の人だかりが、ゆっくり流れていった。翔太が一歩出かけて、止まる。女子社員たちは、まだこっちを見ている。美咲は動かなかった。
サイドミラーの中で、みんなが小さくなっていく。
勝った、とは思わなかった。ただ、二週間ぶりに、あの場所から自分の足で出た。
「凛」
「はい」
「泣くなら、今のうちだ。店では困る」
「泣きません」
「そうか」
嘘だった。目の奥が熱い。窓の外を見ているふりをして、あたしは息を整えた。
最後にもう一度、ミラーを見た。
人だかりはもう小さくて、誰の顔も分からない。分からないのに、美咲だけが、まだこっちを見ているのは分かった。
その足元から、細いものが一本、車のほうへ伸びた気がした。




