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千年妖狐のあやかし花嫁〜婚約者を後輩に奪われた私が、実家の掟で嫁ぐことになった相手は千年生きた妖狐でした〜  作者: キリーロフロフ


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4/10

第4話:逃げ帰った女

 東京へ戻る電車の中で、あたしはずっとスマホを握っていた。


 山を下りて、駅に近づいたところで、圏外の表示が消えた。画面の上に、通知がまとめて落ちてくる。社内チャット。母からの短い確認。怜からの「着いたら連絡」。そして、翔太からのメッセージ。


 開く前から、嫌な予感しかしなかった。


 それでも指は勝手に動いた。


『式場の仮予約の件だけど、美咲があの会場をすごく気に入ってて』


 一行目で、息が止まりそうになった。


『凛から譲る形にしてもらえないかな。俺からだと角が立つし、凛が納得してくれたってことにしたほうが、みんな丸く収まると思う』


 みんな。


 その中に、あたしは入っていない。


 翔太の親。美咲の友達。式場の人。会社の誰か。


 その場にいるらしい「みんな」は、あたし以外の誰かばかりだった。


 電車の窓に、暗い顔をした女が映っていた。駅へ向かう前に着替えたから、薄いピンクの着物はもう着ていない。それでも、まだ体のどこかに帯の苦しさが残っている気がした。膝の上の指を見る。ラメの端が剥げた爪。母に落とせと言われて、怜に呆れられて、はくに褒められた爪。


「自由なら、自分で塗り直せ。剥がされたまま来るな」


 あの低い声が、勝手に耳の奥で響いた。


「ほんと、何なの!」


 車内で声に出してしまって、隣の人が少しだけこっちを見た。あたしは慌ててスマホを伏せる。東京は便利だ。誰かが変なことを言っても、だいたいの人は見なかったふりをしてくれる。


 それが、今だけは少し寂しかった。



 部屋に帰ると、明かりをつける前から、生活の残骸が見えた。


 玄関に置いたままのパンプス。ソファの背に引っかけたジャケット。ローテーブルには、式場のパンフレットが開いたままになっている。白いチャペルと、緑のガーデン。二人で見に行ったとき、翔太は「凛っぽい」と言った。何があたしっぽかったのか、今となっては全然分からない。


 会社用のマグカップも、バッグから出さないままだった。リリン、と小さく名前を書いたシールが貼ってある。美咲がくれた安いシール。職場で笑っていられた頃のもの。


 スマホを開く。


 翔太との写真を消そうとして、指が止まった。


 好きだった顔が、画面の中で笑っている。三年分の写真を一枚ずつ消すのは、思っていたよりずっと面倒で、みじめだった。消したら終わる。消さなくても終わっている。どっちにしても負けなのに、指が動かない。まだ好きな自分に、腹が立つ。


 アルバムの下のほうに、ドレスのスクショだけを集めたフォルダが残っていた。試着の予約が取れた日に作ったやつだ。四十枚以上ある。袖のかたち、丈、背中の開き。あの頃は、こんなもので何時間も悩めた。


 あたしは写真アプリを閉じて、ネイルの道具を引っ張り出した。


 除光液の匂いが部屋に広がる。剥げたラメを落としながら、昼間の座敷を思い出した。白い髪。金色に見える目。耳みたいな影。襖の隙間から伸びた黒い指。


「見えていたな」


 はくの、あの一言だけで、胸の奥が変になる。


 嘘つき、と言われなかった。


 たったそれだけのことが、どうしてこんなに効くんだろう。


 ベースを塗って、乾かして、ラメを重ねる。明るいピンクにしようと思っていたのに、気づけば赤みの強い色を選んでいた。見合い用の薄いピンクの着物には合わない色。会社の白いデスクにも、たぶん少し派手すぎる色。


 でも、あたしが選んだ色だ。


 翌朝、あたしは会社へ行った。


 休む理由はいくらでもあった。熱が出たことにしてもいい。上長には「実家の用事で休みます」と連絡してあったから、その用事が長引いたことにしてもいい。翔太にも美咲にも会いたくなかったし、あたしが出社しただけで、またどこかがざわつくのも分かっていた。


 それでも、行った。


 逃げるためじゃなくて、自分で現実を見るために。


 駅ビルのガラスに映ったあたしは、昨日より少しだけましだった。明るい髪を巻き直して、いつものジャケットを着て、爪は赤い。薄いピンクの着物で連れていかれた女なんかじゃない。自分で選んだ格好で、改札を抜けた。


 会社は、いつも通りだった。


 受付階の白い壁。カードキーをかざす音。フリーアドレスのデスクに並ぶモニター。壁際のディスプレイには、昨日までと同じように広告の数字が流れている。クリック率、予算消化、残り日数。何も変わっていない。


 変わっていたのは、人の目だった。


「おはようございます」


 言うと、近くにいた同僚が一拍遅れて顔を上げた。


「あ、リリン。おはよ」


 笑顔はある。でも、薄い。あたしの顔を見たあと、視線がすぐモニターに戻る。別の席で、誰かが社内チャットを閉じた。たぶん偶然。たぶん、ということにしておく。


 いつも選んでいた窓際のデスクに座り、バッグからマグカップを出した。自分のものを置いただけなのに、他人の場所を借りているみたいだった。


 社内チャットを開く。


 未読が、やけに多い。


 けれど、そこにあたしの悪口が書かれているわけではなかった。仕事の確認。案件の進行。昼の店を決める雑談。誰だって、本人が見える場所に分かりやすい噂なんて流さない。


 お昼の店を話題にするスレッドには、五人が「行きます」と返していた。そのうち三人は、先週まであたしを誘っていた人だった。


 誘われなくなるのに、二週間もいらない。


 だから余計に、見えないところを想像してしまう。


『リリンさん、今日来るのかな』

『実家に戻ったって聞いたけど』

『美咲ちゃん、大丈夫かな。昨日泣いてたよね』


 そんな文字が、あるはずのない画面の裏側に並んでいる気がした。あたしが休んでいる間に、あたしの輪郭だけが勝手に作られている。


 怒ると、怖い先輩。

 泣かせると、ひどい女。

 黙っていると、認めた女。


 便利すぎるでしょ、その設定。


 午前中は、ほとんど仕事にならなかった。修正依頼のメールを開いても、文面が頭に入ってこない。バナーの差し替え指示を見ても、赤字が赤い爪の色に見える。あたしは何度も深呼吸をして、数字だけを見た。数字はいい。嫌な顔をしないし、泣かないし、かわいそうなふりもしない。


 十一時半を過ぎた頃、社内ラウンジへドリンクを取りに行った。


 窓際にソファと丸テーブルが並んでいて、ウォーターサーバーとコーヒーマシンが置かれている。みんなタンブラーを持って、ここで少しだけ息を抜く。


 角を曲がったところで、足が止まった。


 美咲の声がした。


「翔太さん、私、本当に大丈夫ですから」


 甘くて、小さい声。


 あたしがいない場所で聞くと、こんな声になるんだ、と思った。


 ガラスのパーテーションの向こう、ラウンジの端に美咲と翔太がいた。二人ともこっちには気づいていない。美咲は紙コップを両手で包んで、俯いている。翔太はその横に立って、困ったような顔をしていた。


「でも、昨日また泣いてただろ」


「だって、リリン先輩、実家の用事でお休みだったって聞いたから。私のせいで会社に来られなくなったのかなって」


 違う。


 そう言いたかった。


 でも、声が出なかった。


「凛は、そういうタイプじゃないよ」


 翔太が言った。


 少しだけ胸が動いた。


 けれど、次の言葉で止まった。


「強いから。自分が悪いって思ってても、そういう顔はしない」


「美咲は優しいからな。自分だけが悪いって思い込んでるんだよ」


 優しかったら、あんなふうに奪ったりしない。


「でも、式場のこと、お願いして大丈夫ですか」


 美咲が紙コップを見つめたまま言った。


「私、あの会場、すごく素敵だと思ったんです。でも、リリン先輩が使うはずだった場所だから、そんなのひどいって思われたら」


「凛はもう使わないだろ」


 翔太は、あっさり言った。


 あっさりしすぎていて、かえって深いところに入った。


「俺からちゃんと話す。凛から譲ってもらった形にすれば、周りも納得すると思う」


 周り。


 また、あたしだけが入っていない。


 喉の奥が熱くなった。怒りなのか、悔しさなのか、まだ分からない。手の中のタンブラーを握りすぎて、赤い爪の先が少し白くなった。


 そのとき、美咲が顔を上げた。


 目が合った。


 泣きそうだった顔が、一瞬だけ、すっと乾いた。


 それから、すぐに柔らかい笑顔になる。


「リリン先輩」


 翔太が振り向く。気まずそうな顔をした。気まずいなら、最初から言わなきゃいいのに。


「来てたんだ」


「来てたよ。仕事、そんなに休めないし」


 自分でも驚くくらい、普通の声が出た。


 美咲は紙コップを胸の前で持ったまま、心配そうに眉を下げた。


「無理しないでくださいね。昨日、実家へ戻って、そのままお見合いだったって聞いて。すごく大変だったんですよね」


「誰から聞いたの」


「え」


「あたし、実家の用事としか会社に言ってないけど」


 美咲の指が、紙コップの縁を少し潰した。


 でも、先に反応したのは翔太だった。


「凛、そういう言い方はやめろよ。美咲は心配してるだけだ」


 出た。


 心配してるだけ。


 あたしが何かを言えば、すぐこの形になる。美咲は心配している。あたしは疑っている。美咲は怖がっている。あたしは責めている。


 ラウンジの入口に、何人かが立っていた。水を取りに来た同僚たちだ。みんな、何も聞いていない顔をしている。聞いていない顔をして、しっかりこっちを見ている。


「あ、そうだ」


 美咲が、思い出したみたいに顔を上げた。


「先輩がディレクションしていた、Mファイナンスさんの案件、私が引き継いでおきました。急なお休みだったので、先方が心配されてて」


「……え」


「勝手にすみません。でも、止めておくわけにもいかなくて」


 入口のほうで、誰かが小さく「えらい」と言った。


 勝手に、じゃない。


 あの案件は、半年かけて、やっと指名で来た仕事だ。休むと連絡した日、引き継ぎはいらないと上長にも伝えてある。一日休んだくらいで崩れるような進行にはしていない。


 全部、口の中まで出た。


 言ったところで、休んだ人間がフォローした後輩を責めている絵になる。ここで言い返したら、また同じだ。


 あたしは息を吸った。


「水、汲みに来ただけ」


 それだけ言って、ウォーターサーバーの前に立った。


 水が落ちる音が、やけに大きい。背中に視線が刺さる。翔太が何か言いかけたけれど、言わなかった。美咲も黙っている。


 タンブラーに半分だけ水を入れて、ラウンジを出ようとした。


 すれ違う瞬間、美咲が小さく言った。


「戻ってくるんですね」


 誰にも聞こえないくらいの声だった。


「私なら、ちょっと無理かも」


 足が止まりそうになった。


 でも、止まらなかった。


 席に戻ると、仕事の通知がまた増えていた。案件の確認。バナーの差し替え。昼休み後の打ち合わせ。画面の端で通知が跳ねるたび、見えない雑談チャンネルに、さっきの続きが書かれている気がした。


 笑える。


 泣いたほうが勝ちなら、あたしも今すぐ泣けばいいのだろうか。デスクに突っ伏して、つらいです、怖いです、傷つきましたって言えば、誰かが味方してくれるのだろうか。


 でも、あたしが泣いたら、たぶん泣き方がかわいくない。


 そういうところまで、負けている気がした。


 十二時を過ぎると、財布やスマホを手にした人たちが、次々とエレベーターへ向かい始めた。


「今日、下のビストロ行く?」


「いいね。美咲ちゃんも行こ」


「翔太さんも外ですか?」


 名前が聞こえるたび、胃のあたりが重くなる。


 あたしは誘われなかった。


 それは別にいい。今、一緒にランチなんて行けるわけがない。そう思うのに、エレベーターホールへ向かう人たちの背中を見ていると、会社の中から少しずつ押し出されているみたいだった。


 あたしも立ち上がった。


 コンビニでいい。何か買って、どこか人の少ない場所で食べればいい。今日だけ。今日だけやり過ごせば、明日はもう少しましになる。たぶん。


 エレベーターは混んでいた。


 美咲は女子社員たちの真ん中にいた。小柄で、淡い色のブラウスがよく似合う。翔太は少し離れたところでスマホを見ていた。あたしが乗ると、会話が一瞬だけ薄くなった。


 扉が閉まる。


 鏡みたいな扉に、みんなの顔が映る。


 あたしだけが、ひどく場違いに見えた。エレベーターの鏡って、こういうときだけ性能がいい。


 一階で降りると、夏前の昼の光がまぶしかった。ビルの外には、ランチへ出る人たちが流れている。あたしはこの街が好きだった。忙しさで何でも上書きできると思っていた。


 でも今は、どこへ行けばいいのか分からなかった。


 そのとき、エントランス前の車寄せに、場違いなほど派手な車が滑り込んできた。


 地面に吸いつくみたいに低い車体だった。前へ鋭く伸びたノーズと、深いワインレッドの曲線。磨き込まれた車体が昼の光を弾いて、ビルのガラスに赤い線を引く。ランチへ出ようとしていた社員たちが、ほとんど同時にそちらを見た。


「え、何あれ」


「すご、映画みたい」


「あの色、やば」


「社長の知り合い?」


「違うでしょ、あんな車で来る人いる?」


「待って、運転席」


 運転席側のドアが開いた。


 降りてきたのは、白い髪の男だった。


 黒い服。長い指。人の多い東京の真ん中に立っているのに、山奥の座敷と同じように、周りの空気だけが少し遅れて見えた。


 はくの視線が、あたしの赤い爪で一度止まった。それから、目が合った。


 女子たちの声が、半分だけ悲鳴みたいに上がった。


 翔太が、スマホから顔を上げた。


 あたしは息をするのを忘れていた。


 東京の食事に興味がある、みたいなことは言っていた。


 でも、あれは軽口だと思っていた。まさか、本人がこんなに早く来るなんて思っていなかった。


 はくは車のドアを閉め、何でもないことみたいに言った。


「凛。迎えに来た。東京の昼飯を、俺に教えろ」


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