第4話:逃げ帰った女
東京へ戻る電車の中で、あたしはずっとスマホを握っていた。
山を下りて、駅に近づいたところで、圏外の表示が消えた。画面の上に、通知がまとめて落ちてくる。社内チャット。母からの短い確認。怜からの「着いたら連絡」。そして、翔太からのメッセージ。
開く前から、嫌な予感しかしなかった。
それでも指は勝手に動いた。
『式場の仮予約の件だけど、美咲があの会場をすごく気に入ってて』
一行目で、息が止まりそうになった。
『凛から譲る形にしてもらえないかな。俺からだと角が立つし、凛が納得してくれたってことにしたほうが、みんな丸く収まると思う』
みんな。
その中に、あたしは入っていない。
翔太の親。美咲の友達。式場の人。会社の誰か。
その場にいるらしい「みんな」は、あたし以外の誰かばかりだった。
電車の窓に、暗い顔をした女が映っていた。駅へ向かう前に着替えたから、薄いピンクの着物はもう着ていない。それでも、まだ体のどこかに帯の苦しさが残っている気がした。膝の上の指を見る。ラメの端が剥げた爪。母に落とせと言われて、怜に呆れられて、はくに褒められた爪。
「自由なら、自分で塗り直せ。剥がされたまま来るな」
あの低い声が、勝手に耳の奥で響いた。
「ほんと、何なの!」
車内で声に出してしまって、隣の人が少しだけこっちを見た。あたしは慌ててスマホを伏せる。東京は便利だ。誰かが変なことを言っても、だいたいの人は見なかったふりをしてくれる。
それが、今だけは少し寂しかった。
部屋に帰ると、明かりをつける前から、生活の残骸が見えた。
玄関に置いたままのパンプス。ソファの背に引っかけたジャケット。ローテーブルには、式場のパンフレットが開いたままになっている。白いチャペルと、緑のガーデン。二人で見に行ったとき、翔太は「凛っぽい」と言った。何があたしっぽかったのか、今となっては全然分からない。
会社用のマグカップも、バッグから出さないままだった。リリン、と小さく名前を書いたシールが貼ってある。美咲がくれた安いシール。職場で笑っていられた頃のもの。
スマホを開く。
翔太との写真を消そうとして、指が止まった。
好きだった顔が、画面の中で笑っている。三年分の写真を一枚ずつ消すのは、思っていたよりずっと面倒で、みじめだった。消したら終わる。消さなくても終わっている。どっちにしても負けなのに、指が動かない。まだ好きな自分に、腹が立つ。
アルバムの下のほうに、ドレスのスクショだけを集めたフォルダが残っていた。試着の予約が取れた日に作ったやつだ。四十枚以上ある。袖のかたち、丈、背中の開き。あの頃は、こんなもので何時間も悩めた。
あたしは写真アプリを閉じて、ネイルの道具を引っ張り出した。
除光液の匂いが部屋に広がる。剥げたラメを落としながら、昼間の座敷を思い出した。白い髪。金色に見える目。耳みたいな影。襖の隙間から伸びた黒い指。
「見えていたな」
はくの、あの一言だけで、胸の奥が変になる。
嘘つき、と言われなかった。
たったそれだけのことが、どうしてこんなに効くんだろう。
ベースを塗って、乾かして、ラメを重ねる。明るいピンクにしようと思っていたのに、気づけば赤みの強い色を選んでいた。見合い用の薄いピンクの着物には合わない色。会社の白いデスクにも、たぶん少し派手すぎる色。
でも、あたしが選んだ色だ。
翌朝、あたしは会社へ行った。
休む理由はいくらでもあった。熱が出たことにしてもいい。上長には「実家の用事で休みます」と連絡してあったから、その用事が長引いたことにしてもいい。翔太にも美咲にも会いたくなかったし、あたしが出社しただけで、またどこかがざわつくのも分かっていた。
それでも、行った。
逃げるためじゃなくて、自分で現実を見るために。
駅ビルのガラスに映ったあたしは、昨日より少しだけましだった。明るい髪を巻き直して、いつものジャケットを着て、爪は赤い。薄いピンクの着物で連れていかれた女なんかじゃない。自分で選んだ格好で、改札を抜けた。
会社は、いつも通りだった。
受付階の白い壁。カードキーをかざす音。フリーアドレスのデスクに並ぶモニター。壁際のディスプレイには、昨日までと同じように広告の数字が流れている。クリック率、予算消化、残り日数。何も変わっていない。
変わっていたのは、人の目だった。
「おはようございます」
言うと、近くにいた同僚が一拍遅れて顔を上げた。
「あ、リリン。おはよ」
笑顔はある。でも、薄い。あたしの顔を見たあと、視線がすぐモニターに戻る。別の席で、誰かが社内チャットを閉じた。たぶん偶然。たぶん、ということにしておく。
いつも選んでいた窓際のデスクに座り、バッグからマグカップを出した。自分のものを置いただけなのに、他人の場所を借りているみたいだった。
社内チャットを開く。
未読が、やけに多い。
けれど、そこにあたしの悪口が書かれているわけではなかった。仕事の確認。案件の進行。昼の店を決める雑談。誰だって、本人が見える場所に分かりやすい噂なんて流さない。
お昼の店を話題にするスレッドには、五人が「行きます」と返していた。そのうち三人は、先週まであたしを誘っていた人だった。
誘われなくなるのに、二週間もいらない。
だから余計に、見えないところを想像してしまう。
『リリンさん、今日来るのかな』
『実家に戻ったって聞いたけど』
『美咲ちゃん、大丈夫かな。昨日泣いてたよね』
そんな文字が、あるはずのない画面の裏側に並んでいる気がした。あたしが休んでいる間に、あたしの輪郭だけが勝手に作られている。
怒ると、怖い先輩。
泣かせると、ひどい女。
黙っていると、認めた女。
便利すぎるでしょ、その設定。
午前中は、ほとんど仕事にならなかった。修正依頼のメールを開いても、文面が頭に入ってこない。バナーの差し替え指示を見ても、赤字が赤い爪の色に見える。あたしは何度も深呼吸をして、数字だけを見た。数字はいい。嫌な顔をしないし、泣かないし、かわいそうなふりもしない。
十一時半を過ぎた頃、社内ラウンジへドリンクを取りに行った。
窓際にソファと丸テーブルが並んでいて、ウォーターサーバーとコーヒーマシンが置かれている。みんなタンブラーを持って、ここで少しだけ息を抜く。
角を曲がったところで、足が止まった。
美咲の声がした。
「翔太さん、私、本当に大丈夫ですから」
甘くて、小さい声。
あたしがいない場所で聞くと、こんな声になるんだ、と思った。
ガラスのパーテーションの向こう、ラウンジの端に美咲と翔太がいた。二人ともこっちには気づいていない。美咲は紙コップを両手で包んで、俯いている。翔太はその横に立って、困ったような顔をしていた。
「でも、昨日また泣いてただろ」
「だって、リリン先輩、実家の用事でお休みだったって聞いたから。私のせいで会社に来られなくなったのかなって」
違う。
そう言いたかった。
でも、声が出なかった。
「凛は、そういうタイプじゃないよ」
翔太が言った。
少しだけ胸が動いた。
けれど、次の言葉で止まった。
「強いから。自分が悪いって思ってても、そういう顔はしない」
「美咲は優しいからな。自分だけが悪いって思い込んでるんだよ」
優しかったら、あんなふうに奪ったりしない。
「でも、式場のこと、お願いして大丈夫ですか」
美咲が紙コップを見つめたまま言った。
「私、あの会場、すごく素敵だと思ったんです。でも、リリン先輩が使うはずだった場所だから、そんなのひどいって思われたら」
「凛はもう使わないだろ」
翔太は、あっさり言った。
あっさりしすぎていて、かえって深いところに入った。
「俺からちゃんと話す。凛から譲ってもらった形にすれば、周りも納得すると思う」
周り。
また、あたしだけが入っていない。
喉の奥が熱くなった。怒りなのか、悔しさなのか、まだ分からない。手の中のタンブラーを握りすぎて、赤い爪の先が少し白くなった。
そのとき、美咲が顔を上げた。
目が合った。
泣きそうだった顔が、一瞬だけ、すっと乾いた。
それから、すぐに柔らかい笑顔になる。
「リリン先輩」
翔太が振り向く。気まずそうな顔をした。気まずいなら、最初から言わなきゃいいのに。
「来てたんだ」
「来てたよ。仕事、そんなに休めないし」
自分でも驚くくらい、普通の声が出た。
美咲は紙コップを胸の前で持ったまま、心配そうに眉を下げた。
「無理しないでくださいね。昨日、実家へ戻って、そのままお見合いだったって聞いて。すごく大変だったんですよね」
「誰から聞いたの」
「え」
「あたし、実家の用事としか会社に言ってないけど」
美咲の指が、紙コップの縁を少し潰した。
でも、先に反応したのは翔太だった。
「凛、そういう言い方はやめろよ。美咲は心配してるだけだ」
出た。
心配してるだけ。
あたしが何かを言えば、すぐこの形になる。美咲は心配している。あたしは疑っている。美咲は怖がっている。あたしは責めている。
ラウンジの入口に、何人かが立っていた。水を取りに来た同僚たちだ。みんな、何も聞いていない顔をしている。聞いていない顔をして、しっかりこっちを見ている。
「あ、そうだ」
美咲が、思い出したみたいに顔を上げた。
「先輩がディレクションしていた、Mファイナンスさんの案件、私が引き継いでおきました。急なお休みだったので、先方が心配されてて」
「……え」
「勝手にすみません。でも、止めておくわけにもいかなくて」
入口のほうで、誰かが小さく「えらい」と言った。
勝手に、じゃない。
あの案件は、半年かけて、やっと指名で来た仕事だ。休むと連絡した日、引き継ぎはいらないと上長にも伝えてある。一日休んだくらいで崩れるような進行にはしていない。
全部、口の中まで出た。
言ったところで、休んだ人間がフォローした後輩を責めている絵になる。ここで言い返したら、また同じだ。
あたしは息を吸った。
「水、汲みに来ただけ」
それだけ言って、ウォーターサーバーの前に立った。
水が落ちる音が、やけに大きい。背中に視線が刺さる。翔太が何か言いかけたけれど、言わなかった。美咲も黙っている。
タンブラーに半分だけ水を入れて、ラウンジを出ようとした。
すれ違う瞬間、美咲が小さく言った。
「戻ってくるんですね」
誰にも聞こえないくらいの声だった。
「私なら、ちょっと無理かも」
足が止まりそうになった。
でも、止まらなかった。
席に戻ると、仕事の通知がまた増えていた。案件の確認。バナーの差し替え。昼休み後の打ち合わせ。画面の端で通知が跳ねるたび、見えない雑談チャンネルに、さっきの続きが書かれている気がした。
笑える。
泣いたほうが勝ちなら、あたしも今すぐ泣けばいいのだろうか。デスクに突っ伏して、つらいです、怖いです、傷つきましたって言えば、誰かが味方してくれるのだろうか。
でも、あたしが泣いたら、たぶん泣き方がかわいくない。
そういうところまで、負けている気がした。
十二時を過ぎると、財布やスマホを手にした人たちが、次々とエレベーターへ向かい始めた。
「今日、下のビストロ行く?」
「いいね。美咲ちゃんも行こ」
「翔太さんも外ですか?」
名前が聞こえるたび、胃のあたりが重くなる。
あたしは誘われなかった。
それは別にいい。今、一緒にランチなんて行けるわけがない。そう思うのに、エレベーターホールへ向かう人たちの背中を見ていると、会社の中から少しずつ押し出されているみたいだった。
あたしも立ち上がった。
コンビニでいい。何か買って、どこか人の少ない場所で食べればいい。今日だけ。今日だけやり過ごせば、明日はもう少しましになる。たぶん。
エレベーターは混んでいた。
美咲は女子社員たちの真ん中にいた。小柄で、淡い色のブラウスがよく似合う。翔太は少し離れたところでスマホを見ていた。あたしが乗ると、会話が一瞬だけ薄くなった。
扉が閉まる。
鏡みたいな扉に、みんなの顔が映る。
あたしだけが、ひどく場違いに見えた。エレベーターの鏡って、こういうときだけ性能がいい。
一階で降りると、夏前の昼の光がまぶしかった。ビルの外には、ランチへ出る人たちが流れている。あたしはこの街が好きだった。忙しさで何でも上書きできると思っていた。
でも今は、どこへ行けばいいのか分からなかった。
そのとき、エントランス前の車寄せに、場違いなほど派手な車が滑り込んできた。
地面に吸いつくみたいに低い車体だった。前へ鋭く伸びたノーズと、深いワインレッドの曲線。磨き込まれた車体が昼の光を弾いて、ビルのガラスに赤い線を引く。ランチへ出ようとしていた社員たちが、ほとんど同時にそちらを見た。
「え、何あれ」
「すご、映画みたい」
「あの色、やば」
「社長の知り合い?」
「違うでしょ、あんな車で来る人いる?」
「待って、運転席」
運転席側のドアが開いた。
降りてきたのは、白い髪の男だった。
黒い服。長い指。人の多い東京の真ん中に立っているのに、山奥の座敷と同じように、周りの空気だけが少し遅れて見えた。
はくの視線が、あたしの赤い爪で一度止まった。それから、目が合った。
女子たちの声が、半分だけ悲鳴みたいに上がった。
翔太が、スマホから顔を上げた。
あたしは息をするのを忘れていた。
東京の食事に興味がある、みたいなことは言っていた。
でも、あれは軽口だと思っていた。まさか、本人がこんなに早く来るなんて思っていなかった。
はくは車のドアを閉め、何でもないことみたいに言った。
「凛。迎えに来た。東京の昼飯を、俺に教えろ」




