第3話:この人は、あたしを嘘つきにしない
その空気を破ったのは、はくだった。
「今日は返事は必要としない」
「えっ!?」
母が驚いて聞き返す。
「自分で選んでいない返事はいらん」
それだけで、母の口が閉じた。
仲人の老人も、笑みを深くしたまま黙る。怜でさえ、わずかに目を細めた。あたしは、はくを見た。この男は声を荒げていない。命令した感じもない。ただ言っただけだ。それなのに座敷の空気が、さっと道を空ける。
「見合い相手が、それ言うんですか」
「言う」
「会いたければ会う。嫌なら帰ればいい」
「雑」
はくは口元を緩めた。
「凛は俺が気に入ったのか?」
「気に入ったというよりも、いきなり結論を置かれると困るというか」
「なら、結論は置かない」
あっさり言われて、拍子抜けした。
「え」
「今日は、茶を飲んで顔を見ただけだ。凛は俺を妙な男だと思った。俺は凛を面白い女だと思った。それで足りる」
「面白い女って、褒め言葉じゃないですよね」
「俺にとっては褒め言葉だ」
返事が一拍遅れた。
綺麗な男に、まっすぐ見られて、面白いと言われた。美人だとか、若いとか、嫁に向いているとか、そういう値踏みではない。見合いの席で言われる言葉としてはだいぶ変なのに、嫌ではなかった。
はくは、あたしの顔ではなく、目を見ている。
嘘つき扱いされた目。見えたものを見えないふりしてきた目。翔太に信じてもらえなかった目。
この人は、そこを見ている。
「ただし」
低い声が、少しだけ近くなった気がした。実際には、はくは座ったままだ。
「この家に来るなら、母に着せられた着物で流されて来るな。自分で選んだ格好で来い」
座敷の空気が止まった。
母が息をのむ。怜は何も言わない。あたしは、はくの金色に見える瞳から目を逸らせなかった。
「あの男を追えと言っているんじゃない」
「……何の話」
「捨てるなら、自分の手で捨てろ。奪われたまま来られると、俺が凛をさらったみたいになる」
きつい言葉だった。けれど、さっきまでと違って、追い詰められている感じはなかった。
「凛は、自分の目で見なければ納得しない女だろう」
「初対面で、よくそこまで」
「目を見れば分かる」
「詐欺師みたいなこと言いますね」
「詐欺師は、帰れとは言わない」
それは、たぶんそう。
あたしは笑いそうになって、でも笑えなかった。笑ったら泣きそうだったからだ。翔太の写真も、式場の仮予約も、美咲の泣きそうな顔も、会社で逸らされた視線も、全部置きっぱなしだ。何も片づけていない。なのにここで頷いたら、あたしはまた見なかったことにする。
「一度、東京へ戻れ」
はくは静かに言った。
「置いてきた部屋も、会社の席も、自分で見てこい。戻ってから、捨てるものを決めればいい。そのあとで、俺を嫌うなら嫌えばいい」
「選ぶ前提じゃないんですね」
「嫌われる覚悟のない男に、妻は迎えられん」
妻。
その一文字で、耳の奥が熱くなった。
千年生きたと言い張る男に言われたせいか、見合い相手から「妻」と呼ばれたせいか、自分でも分からない。
「……まだ、妻になるなんて言ってませんから」
「まだな」
はくは、ほんの少し笑った。
「また会う理由は残った」
何それ。ずるい。
そこで、はくの視線だけがあたしの肩越しへ流れた。
首の後ろが、すっと冷えた。
振り向くな、と頭のどこかが言った。けれど、見えた。閉じた襖の合わせ目。廊下へ続く薄暗い隙間に、黒い指みたいなものが一本、畳の縁を撫でていた。
人の指じゃない。細すぎる。長すぎる。爪の先だけが、濡れた墨みたいに光っている。
「凛」
はくの声が落ちた。
「見えているなら、逸らすな」
無理。無理なんだけど。
でも、はくは「気のせい」と言わなかった。
黒い指が、畳の上へもう少し伸びる。母も怜も気づいていない。仲人の老人だけが、笑ったまま黙っている。
はくの白い袖が、ほんの少し揺れた。
風もないのに、座敷の白い芍薬から花びらが一枚落ちた。
次の瞬間、黒い指は襖の隙間へ吸い込まれるみたいに消えた。音もなかった。誰も悲鳴を上げない。誰も立ち上がらない。
ただ、はくの背後で白い尾が一筋、畳を払うみたいに揺れた。
はくの目はもう、襖ではなくあたしを見ていた。
「今の」
声がかすれた。
「見えて、ましたよね」
「見えていたな」
それだけだった。
否定も、笑いもしなかった。
嘘つき、と言われなかった。
母が何か言いかけた。怜は、止めるでも押すでもない目であたしを見ている。仲人の老人は、相変わらずにこにこと笑っていた。
あたしは、膝の上で拳を握った。
「……今日、返事はしません」
自分の声は、思ったより震えていなかった。
「でも、東京には戻ります。逃げるためじゃなくて、自分で見るために」
結婚するためじゃない。はくを信じたわけでもない。ただ、もう見ないふりをしないと、自分で決めただけだ。
はくは笑わず、最初からその言葉を待っていたみたいに、静かにあたしを見ていた。
門のところで、はくが一度だけ足を止めた。
山を下りていく細い道を、しばらく見ている。あたしも同じほうを見た。杉と、白い空と、ガードレールの錆。それだけだった。
「何かいるんですか」
「いや」
はくは、それきり道から目を離した。
「いい」
よくない。よくないけど、聞き返す前に、はくがふいに言った。
「東京の食事は旨いと聞く」
「……は?」
「凛が東京で何を食べていたのか、少し気になる」
千年生きていそうな顔をした男が、当然みたいにそう言った。
その言い方が、少しだけ子どもみたいだった。
怖いほど綺麗で、何もかも見透かしてくるくせに、東京の昼ごはんを知らない。あたしが食べていたものを、知りたいと思っている。
ずるい。
そういうところで、急に近くならないでほしい。
あたしはしばらく黙って、それから、たぶん今日いちばん間の抜けた声を出した。
「いや、そこから?」




