第2話:まだ、何ひとつ頷いていない
「千年を少し越えた?ちょっと意味が分からない。年齢よね?」
いつの間にか敬語を忘れて、あたしは呆れた声で返した。はくは顔色ひとつ変えなかった。
「今はそれでいい」
よくない。全然よくない。
母も怜も、冗談だと笑わなかった。それがいちばん嫌だった。
問い詰めようとしたところで、廊下を擦る足袋の音が近づいた。控えていた着物姿の女性が盆を持って入り、湯呑みを置いた。茶の香りがふわりと立つ。あたしは熱い湯呑みを両手で持った。何かに触れていないと、頭の中の「千年」がもっと大きくなりそうだった。
「あらためて、遠いところをよくお越しくださいました」
老人が言った。
「まあ、遠かったです。途中からずっと圏外でしたし」
言った瞬間、母の視線が刺さった。あ、やばい。見合いの席でスマホ圏外に文句を言う女、だいぶ印象が悪い。
けれど、はくはあたしのバッグを見た。バッグの口から、スマホの角がのぞいている。圏外だと分かっているのに、あたしはさっきから親指で画面を押していた。通知は一つもない。すぐ暗くなったガラスに、薄いピンクの袖と、ラメの残ったネイルだけが映る。
「その黒い板が気になるようだな」
「スマホです。黒い板って」
「ここでは役に立たぬものだろう」
「役に立たなくても、持ってると落ち着くんです」
「誰かから知らせが来るのか」
「来ません」
「では、来ないことを確かめているのか」
性格悪っ。
翔太から連絡なんか来ない。来たとしても、もうあたしのことを好きな翔太はどこにもいない。その名前を出されていないのに、胸の奥が勝手に痛んだ。
はくは、誰の名前も聞かなかった。ただ、黒い板を見る目だけを少し緩めた。
「お守りだな、それは」
「スマホをお守り扱いする人、初めて見ました」
「なら、初めてをひとつもらった」
変な言い方をしないでほしい。ただの軽口のはずなのに、この顔と声で言われると、こっちが余計な意味を拾いそうになる。
あたしが黙ると、はくは楽しそうに目を細めた。楽しそう、と言っても大げさに笑うわけじゃない。口元が少しだけ動く程度だ。それだけなのに、座敷の温度が半分だけ上がった気がした。怖い。綺麗。腹が立つ。
腹は立つ。
でも、この男はあたしを笑いものにはしない。そこにほっとしてしまった自分がいて、そのことが逆に腹立たしかった。
「お仕事は、都内で広告関係と伺っております」
仲人の老人が、ようやくお見合いらしい話題を出した。
「あっ。はい。ネット広告です」
「人の欲を、数で見るのか」
「広告を怖いものにしないでください」
「昔は、店先の人だかりで測るしかなかった。数字のほうが正直だ」
「急に理解度が高いですね」
怜が小さく肩を揺らした。笑ったな、今。母は笑っていない。仲人の老人は相変わらずにこにこしている。はくは、あたしの反応を面白がっているみたいだった。からかわれているのか、試されているのか分からない。けれど、さっきまでの息苦しさとは違う。会話の端を掴まれて、引かれている。
笑ったら負けだと思って、湯呑みに口をつける。お茶は熱かった。あたしが舌を軽く火傷しかけると、はくの視線がまた少し動いた。
「急いで飲むな」
「子ども扱いですか」
「顔色が悪い」
「心配してる言い方じゃない」
はくは答えなかった。ただ、あたしの手元から目を離さなかった。
口で言い返しながら、湯呑みを持つ指に力が入った。心配、という言葉を自分で出したせいだ。翔太に最後に心配されたのはいつだっただろう。思い出そうとして、やめた。
はくはそこを追ってこなかった。ただ、あたしの目元から、膝の上の指へ視線を移した。ラメの端が少しだけ剥げている。今朝、母に除光液を渡され、一度だけ爪をこすった。やっぱり嫌で、途中でやめた跡だ。
「東京へ戻ったら、そのネイルをどうする」
「急にネイルの話に戻しますね」
「剥がしかけのまま帰るのだな」
「ネイルくらい自由でしょ」
「自由なら、自分で塗り直せ。剥がされたまま来るな」
ふざけたやりとりの続きみたいな声なのに、言葉だけが急に深く入ってきた。
あたしは湯呑みを置いた。畳の上で、小さく音がした。
「人のこと、勝手に決めつけないでください」
「なら違うと言えばいい」
違う、と言えばよかった。そうすれば終わる。けれど、言えなかった。翔太を取り返したいのかと聞かれたら違う。でも、東京を捨てたくないのは本当だった。あたしはこの家を選んで来たわけじゃない。東京で踏ん張ることも選べないまま、母に着物を着せられて、怜に背中を押されて、ここまで流されてきただけだ。
母がそこで身を乗り出した。
「凛。今日は、そういう話をしに来たんじゃありません」
「じゃあ、どういう話をしに来たの」
言ったあとで、しまったと思った。母の顔が固くなる。仲人の老人が、場を整えるように背筋を伸ばした。
「天城家と稲荷家には、昔からお約束がございます」
「約束」
あたしは姉の怜を見た。怜は目をそらさなかった。母は、そこで初めて口元を引き結んだ。この二人、全部知ってる顔だ。
昔からお約束、という言い方で、思い出したことがあった。
子どもの頃、法事のたびに誰かが言っていた。天城のお山には狐がおらす。稲荷の娘は昔から、そこへ嫁ぐんだと。
あたしは笑っていた。稲荷なんて名字だから、あとから誰かがくっつけた話だと思っていた。
見えないものが見えるあたしが、その話だけは、一度も信じたことがなかった。
「三年前、凛さまはお家を出られる際に、二十七までにご自身で縁を結ばれなければ、家の決めたお相手に嫁がれると」
「ちょっと!そこまで読み上げなくても!」
思わず声が出た。
老人はにこにこと頭を下げる。責められているわけじゃない。ただ事実を並べられているだけなのに、耳が熱い。逃げ場のない場所で、自分の昔の啖呵を読み上げられるのは、ただ恥ずかしいだけだった。
「本日は、そのご縁を確かめるための席でございます」
「確かめるって、あたしは一目会うだけって聞いてます」
「もちろんでございます。まずはお顔合わせを」
「日取りは、秋の落ち着いた頃がいいねって話してるの」
母が、当たり前みたいに言った。
「お荷物のほうは、こちらでお運びいたします。東京のお部屋の引き払いも、業者に心当たりがございますので」
老人が、にこにこと付け足した。
日取り。荷物。引き払い。
あたしが、まだ一言も頷いていないものが、勝手に三つも進んでいる。
まずは、という言い方が嫌だった。次がある前提だ。母の笑顔も、老人の笑顔も、この屋敷の整いすぎた空気も、全部が同じ方向を向いている。あたしを座らせて、頷かせて、もう東京には帰れない形にしてしまう方向。




