第1話:お見合い相手は、怖いほど綺麗な人でした
あたし、稲荷凛。二十七歳。婚約者を会社の後輩に奪われて、二週間。ほんとだったら、東京の広告会社で働いているはずのあたしは今、薄いピンクの着物を着せられ、スマホ圏外の山奥で、古い屋敷の前に立ってる。
三年つきあった翔太とは、式場も仮予約したのに、捨てられた。翔太の隣にいるのは、もうあたしじゃない。
捨てられて泣きたいのはあたしなのに、会社で泣いたのは後輩の美咲だった。「先輩に申し訳なくて」と肩を震わせる美咲を、みんなが慰めた。美咲があたしにしたことを話しても、翔太は信じなかった。本当のことを言うほど、あたしのほうが嘘つきになった。あたしには「凛は強いもんね」と言った。泣かなかっただけで、傷ついていないことにされた。
スマホには翔太と過ごした三年分の写真が残ってる。会社へ行けば二人がいる。休めば、逃げたと思われる。信じられないだろうけど、式場のパンフレットもまだ、捨てられないでいる。
捨てられたのに、まだ何ひとつ捨てられていない。どう見ても、あたしの負けだった。
で、なんで負けた女が、山奥でお見合いなんかしてるんだっけ。
相手は、会ったこともない人。母は「稲荷家が昔からお世話になっているお家の方」と言った。姉の怜は「あんたが三年前に自分で言ったことでしょ」と言った。
三年前の約束。
二十七までに自分で相手を見つけて結婚する。無理なら、家の決めた許嫁に嫁いでやる。
そう言ったことは覚えてる。忘れたふりをしたかっただけ。
実家の古臭い掟が嫌で東京へ出るとき、あたしはそう啖呵を切った。二十七になったときには翔太と婚約していて、約束は棚上げになっていた。それが破談になった途端、三年前の言葉が戻ってきた。
婚約破棄された夜、酔った勢いで姉の怜に電話したのが失敗だった。母から二度、怜からは何度も連絡が来た。全部無視した。二週間目の日曜、いつものバーで潰れたところを怜に回収され、翌朝には着物を着せられていた。
翔太を取り戻したいわけじゃない。会社も、東京の部屋も、好きで仕方なかったわけじゃない。それでも、あそこにはあたしの生活が置きっぱなしになってる。仕事も恋も東京での暮らしも、何もかも中途半端なまま山奥の許嫁に収まるとか、惨めすぎるんだけど。
山道の途中から、スマホは圏外になっていた。分かっているのに、バッグの中で何度も握る。ここは鳥の声しかない。東京とつながるものを全部手放したら、この山と空と家に飲み込まれそうだった。
「凛。背筋」
隣で、姉の怜が言った。
怜はあたしより五つ上で、黒髪を低い位置でまとめ、薄化粧でも隙がない。声を荒げるかわりに、逃げ道を先に塞ぐタイプだ。
「むり。帯、苦しい」
「その着物、あんたが七五三で嫌がって暴れたやつより楽よ」
「比較対象が古すぎ」
「中身があまり成長していないから」
ひどい。悔しいことに、言い返せない。派手なネイルは落とせと言われたけれど、そこだけは死守した。薄いピンクの着物に、ラメの残った爪。どう見ても見合いに本気の女ではない。いいんだ。むしろこれがいいの。一目会うだけ。一目会って、無理なら断る。そのまま東京に帰る。帰ったらネイルを直す。おいしいお酒を飲む。
翔太の写真は消す。いや、消せたら消す。そこはまだ保留。
屋敷は、山道の終わりにあった。
古い。けれど、ぼろくはない。門の柱は黒く艶があり、苔のついた敷石も、足を置くところだけ滑らかに磨かれている。田舎の古い家というより、古さごと大事にしている家だった。気を抜いて立っていると、こっちだけが場違いに見える。
「やっぱ無理。帰ろ」
小声で言ったら、怜に袖を掴まれた。
「逃げない」
「まだ玄関前なんだけど」
「だから止めてる」
そして今も、あたしが本気で踵を返す半秒前に袖を掴んでいる。むかつく。
母は先を歩いていた。久しぶりに会った母は、妙に機嫌がよかった。婚約者に捨てられて帰ってきた娘を心配する顔ではない。むしろ「やっと収まるところに収まる」みたいな顔をしている。その顔が、悔しくて情けなかった。
玄関で出迎えたのは、痩せた老人だった。仲人、という立場らしい。白い眉毛の下で、目だけがやけに若い。表情はにこにこしているのに、目が笑っていない。
「お待ちしておりました、凛さま」
「どうも」
さま、って何。やめてほしい。こっちは昨日まで、行きつけのバーのカウンターで酔い潰れて、マスターに水を出されていた女なんですけど。
廊下を進む。板張りの床は、鏡みたいに光っていた。足袋の裏がすべる。庭に面した障子から薄い光が入り、磨かれた木の匂いと、甘くない香の匂いが混ざっている。怖い、というより、整いすぎていた。人が暮らしている感じがしないのに、廃れてもいない。毎朝、誰かが丁寧に掃除している。花も活け替えている。でも、その誰かの気配だけが薄い。
あたしは昔から、こういう場所が苦手だった。
子どもの頃、ほかの人には見えないものを口にして、何度も笑われた。「嘘つき」「作り話ばっかり」「気を引きたいだけでしょ?」
それからは、見えない、聞こえない、気のせいで通してきた。
東京では、光と音がその存在をごまかし、忘れさせてくれた。次の電車が来る。コンビニの明かりがある。仕事の通知が鳴る。たとえ変なものが見えても、忙しさで上書きできた。
でも、この屋敷は無理だった。
障子の向こうから、誰かに見られている気がした。あたしはバッグの中のスマホを握り直す。画面を見ても、どうせ圏外だ。それでも、何かしていないと顔を上げられなかった。
「こちらでございます」
老人が、奥の座敷の前で膝をついた。
襖が開く。畳の匂いがした。庭に面した広い座敷。床の間には白い芍薬が一輪だけ活けてあり、屏風には金の雲と飛ぶ鳥が描かれている。派手なのに下品じゃない。古い旅館の特別室みたいで、だけど客をもてなすためだけの場所には見えなかった。
「天城家ご当主、天城はく様でございます」
老人が静かに言った。
その奥に、男が座っていた。
まず、顔を見た。というより、見てしまった。
息が一瞬、止まる。切れ長の目。淡い金色に見える瞳。笑っていない薄い唇。肌は白いのに、弱々しさはない。むしろ、こちらが体温を奪われそうなくらい冴えている。綺麗、という言葉だけだと足りない。怖い。でも、怖いのに綺麗。人の顔って、こんなふうに整うものなの?
白い髪は肩のあたりでゆるく結ばれていた。年寄りの白髪ではなく、月の光を細く裂いて束ねたみたいな、冷たい白。黒い羽織の上に落ちているせいで、余計に目につく。膝の上に置かれた指も長かった。骨ばっているのに荒れていない。何も持っていない。ただそこにあるだけで、扇子とか煙管とか、そういう時代劇の小道具が勝手に似合いそうな手だった。
あたしが息を止めたのに、はくは瞬きひとつしなかった。見惚れられ慣れている、という感じでもない。見られていること自体を、数に入れていない目だった。
顔が良すぎる男は危険だ。
これは東京で三年もがいて得た、数少ない真理。
なのに、問題は顔だけじゃなかった。
男の白い髪のあいだで、何かがぴくりと動いた。耳、と頭が勝手に言った。まばたきをして、もう一度見る。次には、ただの髪の影だった。白い髪が重なって、耳の形に見えただけ。そう思って息を吐いたところで、今度は羽織の裾の向こうに白いものが流れた。
尾。
いや、違う。畳に落ちた衣の皺。そう見えただけ。たぶん。
あたしは母を見た。母はにこにこしていた。仲人の老人もにこにこしていた。怜は無表情だった。誰も何も言わない。誰一人として、今のものに反応しない。
見間違い。気のせい。昔から、そういうことにしてきた。でも、もう一度男を見ると、白い髪の奥で、やっぱり何かがこちらを向いた気がした。
狐。
その言葉が頭に浮かんで、すぐに打ち消した。ない。いくら山奥でも、見合い相手に狐は出ない。
いや、出ないよね。
でも今の、耳だった。たぶん。いや、たぶんじゃない。見えた。あたしはもう一度、母と怜を見る。二人とも平然としている。仲人の老人も、何もなかったみたいな顔で座敷の奥へ手を差し出していた。
なんで。なんで誰も突っ込まないの。
「こちらが稲荷家の次女、凛さまでございます」
老人に促され、あたしは座布団の前で膝を折った。
「……稲荷凛です」
「よく来たな、凛」
低い声だった。耳で聞くより先に、畳に落ちてくる声。歓迎の言葉のはずなのに、招かれたというより、呼び寄せられた気がした。
そのとき気づいた。
さっきまで庭で鳴いていた鳥の声が、ひとつも聞こえない。
母は座布団の位置を直していた。怜は庭を見ていた。仲人の老人は、にこにこと畳の縁を見ている。誰も、静かになったことに気づいていない。
凛、と呼ばれた。
子どもの頃は、名字のせいで「おいなりん」だった。会社では、営業チームの先輩が呼び始めた「リリン」が残ってる。二十七にもなってどうなの、とは思うけど、もう仕事用の名前みたいなものだ。
下の名前だけで呼ばれるのなんて、いつ以来だろう。
「いきなり呼び捨てですか」
思わず言っていた。
母が横で固まる。姉の怜がほんの少し目を伏せた。たぶん笑いをこらえている。こらえるくらいなら助けてほしい。
はくは怒らなかった。ほんの少し、目尻を下げる。
「嫌なら、呼び方を改める」
「そこは改めるんだ」
「嫌なのか」
「嫌っていうか、初対面なので」
「凛は、そう思っているのか」
「え」
「なら、今日はそういうことにしておく」
背中が、ぞわっとした。
初対面じゃない、みたいな言い方だった。でも、こんな美しい顔を一度でも見ていたら忘れるわけがない。忘れられる顔じゃない。
それとも、忘れているのはあたしのほうなの。
何それ。変な返しなのに、声が良すぎて無駄にそれっぽく聞こえる。あたしは返事に困って、膝の上で指を組んだ。ラメの残った爪が、薄いピンクの着物の上でやけに浮いている。
はくの視線が、そこへ落ちた。
「その爪の色はいいな」
「え」
「ネイルです」
「そういう名か」
「爪って言われると、急に野生味が出ますからね」
「では、そのネイルはいい」
「言い直すんだ」
「その着物も良いが、そのネイルのほうが凛らしい。この座敷に染まる気がない」
そう言った瞬間、はくの白い髪の奥で何かが揺れた。
耳。
やっぱり耳。
膝の上の指が、びくっと跳ねた。
「褒めてます?」
「褒めている」
「褒め方が分かりにくいんですけど」
母に落とせと言われたネイルだった。怜にも「そのまま行くの」と呆れられたネイルだった。それを、この人だけが、凛らしいと言った。
むかつく。そんなところを見ないでほしい。なのに、膝の上の指を隠すのが、少し惜しくなった。
まだ嫌いだ。怪しいし、たぶん普通じゃない。
なのに、一目会って断るだけだった見合いで、あたしはまだ、この男から目を逸らせずにいた。
目を逸らせないまま、そういえば、見合い相手について一番普通のことを聞いていないと気づいた。
「ちなみに、おいくつですか」
母が息を止めた。怜がこっちを見る。仲人の老人は、笑みを深くしただけだった。
「年のことか」
「年齢以外に何があるんですか」
「二十六だ」
え。
「まさかの年下?」
「まさか」
「じゃあ、何歳なんですか」
「生まれから数えるなら、千年を少し越えた」




