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千年妖狐のあやかし花嫁〜婚約者を後輩に奪われた私が、実家の掟で嫁ぐことになった相手は千年生きた妖狐でした〜  作者: キリーロフロフ


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10/10

第10話:千年妖狐の妻

 木曜の朝、フロアに入った瞬間に分かった。


 噂は、完成していた。


 昨日までは、まだ形が定まっていなかった。切り替えが早い女。前から手を回していた女。そのあたりで揺れていた。


 今日は、一本になっていた。


 凛さんが、怖い男を連れてきて、美咲ちゃんを脅した。


 誰も面と向かって言わない。でも、視線の避け方が昨日と違う。すれ違うときの半歩の広さが違う。「おはようございます」に返事が半拍遅れる。


 美咲は、今日は泣いていなかった。


 泣く必要がなかったからだ。もう全部、済んでいる。



 昼休みになったタイミングで、あたしは席を立った。


 外へ出るつもりだった。はくが来る。昨日、来ると言った。来なくていいと言ったのに、来ると言った。


 回転扉を抜けると、昼の光がまぶしかった。


 車寄せは、ランチに出る人で混んでいた。二日前と同じだ。同じ場所に、同じ色の車が停まっていて、その脇に白い髪が立っている。


 こっちへ歩き出そうとしたとき、後ろから腕を掴まれた。


「凛」


 翔太だった。


 力が強かった。三年つきあって、この人にこんな掴まれ方をしたことは一度もない。


「ちょっと来て。話がある」


「離して」


 言ったのに、翔太は離さなかった。


「昨日から、美咲がおかしいんだよ」


 周りを歩いていた人たちが、何人か足を止めた。


「お前、あの子に何か言っただろ」


 ああ。


 これだ。


 この形だ。


 美咲が泣く。翔太が、あたしの中に悪いところを探す。探せば見つかる。誰にでも見つかる。あたしはそのたびに説明して、説明するほど、言い訳をする女になっていく。


 三年、ずっとこれだった。


「何も言ってない」


「じゃあ何であんな顔してるんだよ」


「知らない」


「知らないって、お前」


 翔太の指が、もう少し食い込んだ。


 そのとき、音が消えた。


 昼休みの車寄せだった。人が歩いていて、笑い声がして、車が入ってきて、遠くで工事の音がしていた。それが全部、一度に、なくなった。


 定食屋のときと同じだった。


 あたしは、顔を上げた。


 はくが、こっちへ歩いてきていた。


 ゆっくりでもなく、速くもなく、普通に。それなのに、道の人が意味もなく端へ寄っていた。自分がなぜ避けたのか分かっていない顔で、みんな避けていた。


 翔太の顔が、白くなった。


 あたしの腕を掴んだままの手が、動かなくなっていた。離したいのに離せない、という感じだった。


 はくが、翔太を見た。


 まだ、一言も言っていない。


 なのに、あたしの首の後ろの毛が立った。


 昼の光の下なのに、翔太の立っているところだけが、暗く見えた。


 この人が本気で怒ったところを、あたしは見たことがなかった。座敷でも、会社の前でも、車の中でも、この人はずっと退屈そうに世界を見ていた。人間の善悪に興味がない目をしていた。


 いま、その目が翔太を見ている。


 勝ち負けの目じゃない。値踏みの目でもない。


 もっと単純な目だった。


 この男を、どうするか決めている目だった。


 次の瞬間、あたしは見た。


 はくの後ろに、白いものが広がっていた。


 尾だった。


 一本じゃない。何本あるのか数えられなかった。夏前の光の中で、それは煙みたいに薄く、けれど確かに畳の上を撫でるみたいに動いていた。白い髪の両脇で、耳が立っていた。今度は瞬きをしても消えなかった。


 顔は、はくのままだった。


 綺麗なままだった。それが、いちばん怖かった。


 その口の端が、上がっていた。


 翔太の首のあたりを見ていた。服の襟から、鎖骨の上あたり。人の顔を見る目じゃなかった。二日前、定食屋であたしの手元を見ていたのと、同じ種類の目だった。


 あの人は、あたしに飯を食わせた。


 それと同じ目で、いま、翔太を見ている。


 喉が、鳴った。


 まわりの誰も、動いていなかった。翔太も、美咲も、道を歩いていた人たちも、誰一人、何も見ていない顔をしていた。


 あたしだけだった。


 法事のたびに、誰かが言っていた。


 天城のお山には狐がおらす。稲荷の娘は昔から、そこへ嫁ぐんだと。


 あたしは笑っていた。名字にくっついただけの話だと思っていた。見えないものが見えるくせに、あの話だけは、一度も信じたことがなかった。


 千年を少し越えた、と言われたとき、あたしは冗談だと思った。


 冗談じゃなかった。


 この人は、本当に。


 あたしは、袖を掴んだ。


 布越しに、腕があった。人の腕の硬さだった。それが、なぜか泣きそうになるくらい普通だった。


「だめ」


 自分の声が、掠れていた。


「だめ。あたしが言う」


 はくが、止まった。


 本当に、それだけで止まった。


 白いものが、光の中でほどけて、消えた。耳も、もうなかった。あたしの手が袖に触れた瞬間に、空気の重さが、すっと元に戻った。


 まわりの音が返ってきた。誰かのスマホの通知音。回転扉の回る音。遠くで車のドアが閉まる音。工事の音。


 誰も、何も気づいていなかった。


 あたしの手だけが、震えていた。


 あたしは、翔太を見た。


 三年つきあった顔だった。二週間前まで、この顔を毎日見ていた。


 昨日、この人が困った顔をしたとき、あたしの体は勝手に前に出ようとした。あれは癖だと自分で分かった。三年かけて作った、あたしの姿勢の癖だ。


 いまも、体のどこかが、収めようとしている。


 笑って、なんでもない話にして、この場を終わらせようとしている。


 あたしは、それを殺した。


「離して」


 もう一度、言った。


 今度は、掠れていなかった。


 翔太の手が、ゆっくり開いた。


 あたしの腕に、指の跡が残っていた。赤い爪の隣に、赤い跡が四つ。



 人が集まってきていた。


 昼休みだ。ビルから出てくる人と、戻ってくる人と、外で待っている人。二十人か、三十人か。


 その中から、美咲が出てきた。


 紙袋を胸に抱えて、小走りで。


「翔太さん」


 声が震えていた。それから、あたしを見た。


「リリン先輩、やめてください。翔太さんは、私が心配で」


 うまい。


 本当に、うまい。


 昨日までのあたしなら、ここで固まっていた。何を言っても、あたしが怒っている女になる。怒った瞬間に負ける。だから黙る。黙ったら、認めたことになる。


 でも、あたしは昨日、この子の三つ目の顔を見た。


 みんなに見せる顔。あたしにだけ見せる顔。そして、翔太にだけ見せる、乾いた顔。


 いま、目の前にあるのは一つ目だ。


 眉が下がっている。目が丸くなっている。声が半音高い。二十四歳の、可哀想な後輩の顔。


 完璧だった。


 完璧だから、作り物だと分かった。


「美咲ちゃん」


 あたしは、呼んだ。


 美咲の肩が、ほんの少し動いた。名前で呼ばれると思っていなかったんだと思う。


「式場の話、しよっか」


 空気が、止まった。


「先輩、何を」


「あたしが探した式場」


 あたしはスマホを出した。


 手が震えていた。震えているのが自分で分かった。それでも指は動いた。


「あの会場、半年前から探したの。土日で八件見て回って、写真も全部撮って、雨の日の見え方まで確認して、それで決めた」


 あたしはアプリを開いた。


 三日前、電車の中で受け取ったメッセージだった。開いてから、一度も返信していない。消してもいない。消せなかった。あのときは、それが未練だと思っていた。


 違った。


 これは、証拠だ。


「杉本翔太から、三日前に来たメッセージ、読むね」


 翔太の顔色が変わった。


「凛、待て」


「『式場の仮予約の件だけど、美咲があの会場をすごく気に入ってて』」


「やめろって」


「『凛から譲る形にしてもらえないかな』」


 あたしは、声を張らなかった。


 張らなくても、聞こえる場所だった。


「『俺からだと角が立つし、凛が納得してくれたってことにしたほうが、みんな丸く収まると思う』」


 空気が、変わった。


 誰かが、小さく「うわ」と言った。


 その一言で、堰が切れた。


「え、待って。今の本人が送ったやつ?」


「杉本さんが?」


「式場って、リリンさんが取ったやつだよね」


 声を潜めていない人が、何人かいた。潜めている人のほうが多かった。潜めているぶん、そっちのほうがよく聞こえた。


 昼休みの車寄せだ。ビルから出てくる人が、そのまま足を止めていく。列が崩れて、人が輪みたいになっていく。スマホを持ち上げかけて、隣の人に肘で止められた子がいた。


 翔太が、まわりを見た。


 あの目だった。二日前、はくの車の前でやったのと同じ。誰が見ているかを確かめる目。


 今日は、全員が見ていた。


 そして、誰とも目が合わなかった。


 いつも翔太と昼に出ている営業の男が、視線を落とした。美咲の隣にいた子が、半歩だけ離れた。離れたことに、たぶん本人も気づいていない。


 あたしは、スマホを下ろした。


「あたしが納得したってことにしたほうが、みんな丸く収まる。そう書いてある」


 翔太は、何も言わなかった。


 言えるはずがなかった。自分で打った文章だ。


 二週間前、あたしが本当のことを話しても、この人は信じなかった。信じないまま、あたしには「リリンは強いもんね」と言った。


 いま、その人が、自分の言葉で立てなくなっている。


 あたしは、それを見ていた。


 思ったより、何も感じなかった。


「美咲ちゃん。あの会場、素敵だと思ったんだよね」


 美咲の目が、あたしを見た。


 眉が、上がりかけた。


 水平になる、あの顔になりかけて、周りの人数を見て、止めた。三秒か、四秒。あたしにはその三秒が見えた。たぶん、あたしにしか見えなかった。


「……私、そんなつもりじゃ」


「うん。そう言うと思った」


 あたしは頷いた。


 勝ち誇るつもりはなかった。実際、勝った気もしなかった。


「あたしが言いたいのは、これだけ。あたしは何も譲ってない。あたしが納得したことに、しないで」


 美咲は、答えなかった。


 答えないのが、この子のいちばん強いところだ。ここで泣けば、まだ半分は取り返せる。それを分かっていて、泣かなかった。人数が多すぎたんだと思う。


 この子は、まだ終わっていない。


 それが分かったけど、あたしは、それでよかった。


 あたしは、この子を潰しに来たんじゃない。



 あたしはスマホを持ち直して、電話をかけた。


 式場の番号だった。登録名は「チャペル」のままにしてある。半年前に登録したときは、これから何十回もかけると思っていた。


 三コール目で、女の人が出た。


「稲荷と申します。十一月の仮予約の件で」


 まわりが、静かになった。


「キャンセルでお願いします。……はい。稲荷凛です」


 名義は、あたしだった。


 見学の予約も、仮予約も、全部あたしが取った。翔太は一度も電話をかけていない。


「はい。……いえ、大丈夫です。ありがとうございました」


 切った。


 それだけだった。


 半年かけて選んだ場所が、四十秒で消えた。


 あたしは、自分の手を見た。指が、まだ少し震えていた。震えているのに、体の真ん中が、やけに静かだった。


「翔太」


 あたしは、名前を呼んだ。


「あたしはもう、あなたたちの式場も、あなたたちの言葉も要らない」


 言い終わって、息を吐いた。


 三年ぶんと、二週間ぶんが、一緒に出ていった気がした。


 翔太は、あたしを見ていた。


 二週間前、あたしを嘘つきにした顔で。いまは、何も言えない顔で。


 あたしは、もう見なかった。



 振り向くと、はくがいた。


 少し離れたところに立っていた。


 いつ下がったのか、気づかなかった。さっきまで、あたしのすぐ後ろにいたはずだった。


 この人は、一言も言わなかった。


 翔太にも、美咲にも、周りの誰にも。あたしが読み上げているあいだも、電話をかけているあいだも、ただ立っていた。


 あたしが、袖を掴んで止めたから。


 それだけの理由で、千年生きた男が、昼のエントランスで黙って立っていた。


 あたしは、そこまで歩いた。


「はく」


「うむ」


「聞きたいことがあります」


「言え」


 まわりに人がいることは、分かっていた。分かっていたけど、いま言わないと、たぶん一生言えない。


「あたし、あなたのこと、ほとんど知りません」


「そうだな」


「昨日、やっと番号を教えてもらいました。それまで、名前しか知らなかった」


「そうだな」


「さっき、見ました」


 言った瞬間に、はくの目が動いた。


 初めてだった。この人が、何かを言われて反応するのを見たのは。


「見えたか」


「見えました」


 声が震えた。


 怖くないと言ったら嘘になる。目の前にいるのは、さっき人を食べようとした何かだ。あたしの田舎の年寄りが、法事のたびに笑い話みたいに言っていたものだ。


 なのに、あたしは一歩、前に出ていた。


 近い。首を上げないと顔が見えないくらい近い。この人の体温がないのか、あるのか、それすら知らない。知らないまま、あたしはここに立っている。


「なのに、あたしのこと勝手に決めないでください」


 はくの目が、少し細くなった。


「条件を出します」


 声が震えないように、一度息を吸った。


「あたしを、飾るだけの嫁にするなら断ります」


「うむ」


「あなたが人間を羽虫みたいに言うなら、あたしが怒ります」


「……うむ」


「あなたが間違えたら、あたしが止めます」


 そこで、はくが黙った。


 長い沈黙だった。三秒か、五秒か。もっと短かったのかもしれない。


 この人の顔から、あの退屈そうな余裕が、初めて消えていた。


「止められると思うのか」


「今日、止まりました」


 はくが、息を吐くみたいな音を立てた。


 笑ったんだと思う。


「そうだったな」


 それから、はくは一歩、下がった。


 迎えに来た男の立ち方じゃなかった。


「稲荷凛」


 初めて、名字ごと呼ばれた。


「その条件で、俺を娶るか」


 あたしは、まわりを見なかった。


 母の顔も、怜の顔も、掟も、村の言い伝えも、三年前の啖呵も、どれも頭に浮かばなかった。


 浮かんだのは、白いご飯の湯気だった。


「選ばれたんじゃない」


 あたしは言った。


「選んだの」


 はくが、手を上げた。


 あたしの体が、勝手に固くなった。さっき見た白いものが、まだ目の裏に残っていた。


 長い指が、あたしの頬の横で止まった。


 髪に触れた。それだけだった。耳のうしろの、崩れた毛を一筋、指の腹で戻された。


 冷たくなかった。


 人の手の温度だった。


 息が、止まった。


 昼の車寄せで、人がまだ何十人も見ている場所で、あたしはその手から逃げなかった。逃げようと思わなかったことに、あとから気づいた。


「では、俺も選ばれた男として振る舞おう」


 低い声が、思っていたよりずっと近くで鳴った。



  *



 助手席のドアが開いていた。


 二日前と同じ場所で、同じ色の車で、同じ男が待っていた。違うのは、あたしが今度は自分で歩いたことだけだった。


 乗り込むとき、後ろで人の声がした。振り返らなかった。


 ドアが閉まると、外の音が遠くなった。


 車が滑り出す。


 しばらくして、あたしはスマホを開いた。


 写真アプリ。三年ぶんのフォルダ。


 好きだった顔が、まだ画面の中で笑っている。


 三日前、あたしはこれを一枚ずつ消そうとして、指が止まった。面倒で、みじめで、どっちにしても負けみたいで、消せなかった。


 いまは、指が動いた。


 全選択。削除。


 確認のダイアログが出た。本当に削除しますか。


 はい。


 次に、ドレスのスクショのフォルダを開いた。四十枚以上ある。袖のかたち、丈、背中の開き。試着の予約が取れた日に作ったやつだ。


 これも、消した。


 二週間、部屋に置きっぱなしだったものが、全部なくなった。パンフレットは、帰ったら捨てる。


 捨てられたのに、何ひとつ捨てられていなかった。


 やっと、捨てた。


 スマホの画面が暗くなって、あたしの顔が映った。


 泣いていなかった。


 通知が一件、上に落ちてきた。


 美咲だった。


『先輩ばっかり、ずるいです』


 あたしは、しばらくそれを見ていた。


 それから、画面を伏せた。


 返信は、しなかった。


 三年間、あたしはこの子の言葉に、全部返事をしてきた。誤解を解こうとして、説明して、そのたびに嘘つきにされた。


 もう、いい。


 顔を上げると、はくが前を見たまま言った。


「返さぬのか」


「返しません」


「そうか」


 それから、はくは一度だけ、ミラーへ目をやった。


 あたしも見た。


 遠ざかっていく会社のビルと、昼休みの人だかりと、その中に立っている小さな影。


 それだけだった。


 はくは、何も言わなかった。



  *



 車は、東京の道を走っていた。


 窓の外を、この街が流れていく。三年住んだ街だ。忙しさで何でも上書きできると思っていた街。


「凛」


「はい」


「住むところを決めねばならん」


「え」


「山では、通えんだろう」


 当たり前のことを言われた。当たり前なんだけど、あまりに急だった。


「え、待って。あの、そういう話、早くないですか」


「早いか」


「早いです。あたし、まだ会社もあるし、部屋の契約も」


「都心に部屋がある」


「は?」


「使っていない。三十階だ」


 あたしは、この人の顔を見た。


 いつもの顔だった。天気の話をしている顔だった。


「……千年生きてると、そういうの、持ってるんですね」


「土地は減らん」


「聞き方が投資家すぎる」


 信号が赤になって、車が止まった。


「言っておきますけど」


「うむ」


「同棲じゃないですから。仮住まいです」


 はくが、こっちを見た。


「同じ屋根なら同じことだ」


「違います。全然違います。仮住まいっていうのは、あの、期間限定というか、お試しというか」


「では、試せ」


「そういう意味じゃなくて!」


 顔が熱くなった。


 この人は、たぶん本当に分かっていない。分かっていないのか、分かっていて言っているのか、千年ぶんの差があるせいで、こっちには判別がつかない。


「そういうところ、本当に千年生きてるのに雑」


 言ってしまってから、あたしは横を向いた。


 信号が青になる。ギアに伸びた手が、あたしの膝のすぐ横を通った。触れてはいない。触れていないのに、そこだけ空気が動いたのが分かって、あたしは膝を寄せた。


 車が動き出す。


 はくが、少しだけ笑った気配がした。


「では」


「なんですか」


「千年ぶん、丁寧に口説けばよいか」


 あたしは、窓の外を見たまま、返事をしなかった。


 三日前、あたしは山奥の座敷で、この男を怖いと思った。


 二日前、会社の前に現れたこの男を、迷惑だと思った。


 昨日、番号を一つもらって、それだけで心細さが半分になった。


 今日、あたしはこの男を選んだ。


 自分でも、順番がめちゃくちゃだと思う。


 ただ、東京の午後の光が、フロントガラスの向こうで白く伸びていて、あたしは久しぶりに、明日のことを考えていた。



 車は、駅から少し離れた高層マンションの地下駐車場へ入った。


「ここが、住むところだ」


「……本当に三十階なんですね」


「嘘をつく必要がない」


「そういう問題じゃないです」


 エレベーターを降りると、はくは一番奥の扉を開けた。


 広すぎる玄関。誰も住んでいなかったはずなのに、照明はついている。窓の向こうには、夕暮れの東京が一面に広がっていた。


 リビングの中央に、見覚えのない小さな箱が置かれている。


 白木の箱だった。蓋の上に、赤い糸が一本だけ結ばれている。


「何ですか、これ」


「花嫁道具だ」


「は?」


 はくが箱に手を伸ばすより先に、蓋の内側から声がした。


「遅かったな、はく。ようやく人の娘を連れてきたか」


 女の声だった。


 あたしにしか見えない白い指が、箱の隙間からゆっくり這い出てくる。


 はくの顔から、いつもの退屈そうな余裕が消えた。


「黙れ。凛は俺が選んだ花嫁だ」


「ちょっと! 花嫁って、まだそこまで言ってません!」


 東京での仮住まいは、たぶん、静かには始まらない。


 あたしはそう思いながらも、玄関の外へは戻らなかった。


作品を読んでいただき、ありがとうございました。少しでも楽しんでいただけましたら、ブクマ・評価で応援していただけると嬉しいです!

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