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世界はまだ、忘れている

作者:Feris
最新エピソード掲載日:2026/09/23
二十七歳の会社員・榊原透(さかきばら とおる)は、仕事帰りに一つ年下の友人である三枝奈緒(さえぐさ なお)と夕飯を食べていた。美人で少し勝気な奈緒とは、学生時代からの付き合いだ。彼女が初めて手作り市に出るというので、透は店番を引き受ける。代わり映えのしない休日に、楽しみな予定がひとつできた。

その帰り道、いつもの橋の下から、水音と子どもたちの笑い声が聞こえてきた。

川で遊んでいるのだろうと思った透に、奈緒は言う。ここには、もう何十年も前から川などない。橋の下を通っているのは、舗装された遊歩道だと。

二人で下りてみても、水は流れていなかった。誰もいない道に、笑い声だけが響いている。ところが奈緒は「あ、いた」と顔を上げ、橋の向こうへ手を振った。

透には、誰の姿も見えなかった。

それから少しずつ、二人の知っている街が食い違い始める。見慣れた道で立ち止まり、何気ない言葉に聞き返す。同じ場所にいて、同じものを見ているはずなのに、相手の話が分からない。

それでも会社はあり、買い物は必要で、来月の約束もある。不可解な体験は日々の用事に押し流され、昨日は確かめずにいられなかったことが、今日は気にするほどでもなくなっている。

おかしいのは街なのか。それとも、おかしいと思わなくなっていく自分なのか。

隣にいる奈緒が何を見ているのかを、透は知りたかった。奈緒もまた、自分に見えているものを、透に伝えようとした。

互いの言葉を見間違いで片づけずにいた二人は、やがて、誰にも知られず日常と重なり合う世界へ踏み込んでいく。そこには忘れられた場所があり、いまもそこで生きている人々がいた。そして、忘れられたままでなければならない理由も。
第一話 川の音
2026/09/06 00:03
隣にいる人
2026/09/23 01:47
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