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世界はまだ、忘れている  作者: Feris


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第二話 見えない側

「奈緒、俺には見えない」


 彼女は手を下ろし、不思議そうに透を見た。


「見えないって、あの子が?」


「うん。さっきから探してるけど、誰もいない」


「いるよ。街灯のすぐ右。ほら、半袖で、黒っぽいズボンの子」


 奈緒は透の隣へ寄り、同じ方を見るように顔を近づけた。肩が触れたが、そんなことを気にしている場合でもなかった。示された場所は、さっきから何度も見ている。塀の前に、明かりの届いた道がある。それだけだった。


「ここからなら——」


 奈緒は言いかけ、透の顔を見た。


「……本当に見えてないの?」


「悪いけど」


「謝らなくていいよ。そうじゃなくて」


 彼女はもう一度、道の先へ顔を向けた。見間違えたのかもしれないと笑ってくれれば、透も話を合わせられた。しかし、奈緒は笑わなかった。


 これだけ近くから見て、同じ場所を指している。見る方向がずれているだけだという説明は、もう使えそうになかった。


「写真、撮ってみる」


 奈緒が鞄からスマートフォンを出した。


「それなら、どこにいるか分かるでしょ」


「そうだな」


 分かるかどうか、透には見当もつかなかった。それでも、何かすることがあるのはありがたかった。奈緒が子どもを見ている間、自分は彼女の顔色を窺う以外にすることがない。


 画面を道の先へ向けたところで、奈緒の指が止まった。


 端末を少し下げ、また上げる。透も横から覗き込んだ。画面には街灯と塀が収まり、手前の道が明るく写っていた。肉眼で見ているものと、特に違いはなかった。


「撮れない?」


「……画面に、いない」


 奈緒は端末の横から道を見た。


「でも、そこにはいるんだよ。今も」


 透は画面から目を離し、彼女の見ている場所を確かめた。やはり誰もいなかった。


 奈緒は一枚撮った。撮れた写真を開き、指で大きくしてから透へ見せる。拡大された塀は少しぼやけていたが、人が隠れていないことくらいは分かった。


「これ、透にはどう見える?」


「普通の道。さっきから、俺にはこう見えてる」


 奈緒はすぐには返事をしなかった。


 写真なら何とかなると、少し期待していた。何がどうなるのかまでは考えていなかったが、分からないものはとりあえず画面で確かめる癖がついている。今回は、その画面まで奈緒を困らせていた。


「音も、本当に聞こえない?」


「聞こえない。奈緒には、まだ水の音がしてるのか」


「うん。ずっと」


 透が言葉を探していると、奈緒が顔を上げた。誰かの動きを追うように、視線が道の奥へ移っていく。


「あっちへ行っちゃう」


 透はそれにつられて先を見たが、動くものはなかった。


「追いかけなくていいよ」


 思わず言うと、奈緒がこちらを向いた。


「追いかけないよ」


「そうか」


「さすがに、今は」


 彼女はスマートフォンを鞄へ戻した。さっきまで手を振っていたのが嘘のように、両手で持ち手を握っている。


 透の目には、何も変わっていなかった。濡れた舗装と、住宅の塀と、駅から続く明かり。ここまで下りてきたときと同じ、ただの遊歩道だった。


 それがかえって困った。奈緒が何を怖がり始めたのか、自分には確かめる方法がない。


「いったん戻ろう。ここに立ってても、分からないだろ」


 できるだけ、いつもの調子で言った。


 奈緒は頷いたものの、すぐには歩き出さなかった。道の先へ目をやり、それから透を見る。


「先に行かないでね」


「行かないよ。置いてったら、あとで何言われるか分からないし」


「そういうの、今はいいから」


 そう言いながら、奈緒が袖を掴んだ。


 軽口を言えば少しは楽になるかと思ったが、外したらしい。透はそれ以上余計なことを言わず、彼女と並んで階段へ向かった。


 上を歩く人の靴音が近づいてきた。段を上がりきると、傘を提げた男が目の前を通り過ぎた。こちらをちらりと見ただけで、そのまま坂を上っていく。


 奈緒は手を離した。透は少しだけ歩くのを遅くし、どちらへ行くか決める前に、彼女の顔を見た。


「さっきの店、戻ってもいい?」


「何か忘れた?」


「忘れてない。ちょっと座りたいだけ」


 奈緒は食堂の明かりを見ていた。


「このまま家に帰って、一人で考えるの、嫌だから」


「じゃあ、お茶でも飲んでいこう。まだ開いてるし」


 答えてから、透は自分も一人で帰りたくなくなっていることに気づいた。そちらは言わなくてもよかった。奈緒を落ち着かせるために付き合うことにしておけば、格好くらいはつく。


 店へ向かう途中、奈緒が一度だけ足を緩めた。


「水の音、ここだと聞こえない」


 透も立ち止まり、つい耳を澄ませた。車の走る音と、店先で話す人の声が聞こえる。さっきと違うかどうか、自分には判断できなかった。


「下から離れたからかな」


「そうかも。分からないけど」


 奈緒は橋へ戻って確かめようとはしなかった。透もそれを勧めるつもりはなく、二人で食堂の戸を開けた。


     *


「あら、忘れ物?」


 奥さんが、片づけかけていた皿から顔を上げた。


「いや、コーヒーだけでも、まだ大丈夫ですか」


「大丈夫よ。さっきの席、空いてるから」


 窓際を示され、奈緒はその手前の二人掛けを見た。


「こっちでもいいですか」


「どこでもどうぞ。温かいの?」


 奈緒が頷いたので、透も同じものを頼んだ。彼女は壁側へ腰を下ろし、鞄を膝に載せた。透が向かいに座ると、ようやく持ち手から手を離した。


 さっきの席には、もう別の箸と伝票が用意されていた。まだ誰も座っていない。ほんの少し前まで、そこで奈緒の絵を見ていたのに、ずいぶん時間が経った気がした。


「変な話してもいい?」


 奈緒が尋ねた。


「今さら、少しくらい増えても変わらないだろ」


「さっき、私一人だったら、普通に帰ってたと思う」


 透は黙って続きを待った。


「子どもが遊んでて、手を振ってくれたから返して、それだけ。水の音も、どこかで流れてるんだろうなって思ってた。変なものを見た感じは、全然しなかったんだよ」


「うん」


「でも、透が見えないって言って、写真にもいなくて。そうしたら、急に……何に手を振ってたんだろうって」


 奈緒は自分の右手を見た。指の絆創膏の端を押さえてから、膝へ戻す。


「私、普通に笑ってた?」


「笑ってたよ。知ってる子なんだと思った」


「そっか」


 その返事は、聞けてよかったというものには聞こえなかった。


 コーヒーが運ばれてきた。奈緒は店の奥さんへ礼を言い、カップを少し手前へ寄せた。透も一口飲んでみたが、まだ熱かった。今度は無理に飲まずに戻す。


「前にも、こういうことあった?」


 なるべく何でもない質問に聞こえるようにしたつもりだったが、奈緒は少し身を固くした。


「こういうことって、見えない子に手を振ること?」


「いや。自分には見えてるのに、ほかの人には見えないとか」


「ない。少なくとも、言われたことはないよ」


 そこで奈緒は、言ったことを確かめるように黙った。


「……一人で歩いてるときに見たものまで、誰かに聞いたことはないけど」


 それを言われると、透も困った。自分だって、通りですれ違った人が誰に見えていたかなど、確かめたことはない。


「今、前のことまで全部考えなくていいんじゃないか。分からなくなるだけだろ」


「そうだよね」


 奈緒は頷いた。それから、カップに触れていた指を離し、透の顔を見た。


「透は、私が見間違えたんだと思ってる?」


 その言葉に頷けば、少なくとも自分の側の辻褄は合う。知っている街に、何も見えない子どもがいると考えるより、ずっと簡単だった。


 けれど、奈緒はまだ返事を待っていた。


「見間違いかどうかは分からない。俺には、何も見えなかったから」


「うん」


「ただ、からかおうとしてたんじゃないのは分かるよ。そういうときは、途中で俺の顔を見るだろ。さっきは、ずっと道の先を見てた」


 奈緒は少し目を丸くした。


「……私、そんなに分かりやすい?」


「毎回うまくやってるつもりだったのか」


「少なくとも、透には分からないこともあると思ってた」


 そう言ったあと、奈緒は小さく笑った。すぐにカップへ目を落としたが、肩の力は少し抜けていた。


 ここで、全部分かるわけじゃないと言い足す必要はなかった。今夜はこちらが分からないことばかりだ。それでも、奈緒が嘘をついたかどうかまで、写真に決めてもらうつもりはなかった。


 彼女が鞄の中を探ったので、透はまたスマートフォンを出すのかと思った。けれど出てきたのは、カードの封筒だった。中を覗き、一枚ずつ端を確かめている。


「折れた?」


「大丈夫。さっき、鞄をぎゅっと持っちゃったから」


 猫のカードが一瞬見え、すぐにほかとは別の場所へ戻された。透のために取っておくと言った一枚だった。


「それ、気になるなら俺が持とうか」


「どうして?」


「鞄の中で押されないように」


「平気。もうそんなに力、入ってないし」


 奈緒は封筒をしまい、鞄を隣の空いた場所へ置いた。


「今日は荷物より、私の方を気にしてて」


「気にしてるよ。だからコーヒー飲んでるんだろ」


「うん。じゃあ、もう少しここにいて」


 透は頷き、カップを持った。今度は、ちょうど飲めるくらいになっていた。


 しばらく二人とも黙っていた。厨房で水を使う音がして、奥さんと、カウンターに座った客が天気の話をしている。奈緒はときどきカップを持ち上げ、透もそれに合わせるように飲んだ。何か言って安心させなければと思っていたが、奈緒は会話が止まったことを気にしていないようだった。次の言葉を探さなくてよくなると、透も少し楽になった。


「ママに連絡しとく。さっき、もう帰るって送っちゃったから」


 奈緒がスマートフォンを取り出した。


「今のことも話す?」


「帰ったら。文章にすると、すごい話になりそうだし」


 短く入力して送ると、すぐに返事が来たらしい。奈緒は画面を読み、少しだけ困った顔をした。


「透も何か食べていくかって」


「今、食ったばかりだろ」


「家にも煮物があるんだって。持たせるだけでもって」


 透は手を振った。食堂の中で別の夕飯の心配をされるとは思わなかった。


「今日はいいよ。遅くなるし」


「そう言うと思った。じゃあ、帰ってから明日の私が食べる」


 奈緒は返事を送り、画面を伏せた。家へ戻れば、明日食べる煮物の話が待っている。そのことが、透には少しありがたかった。


 カップが空になると、奈緒は窓の方を見ずに立ち上がった。


「帰ろうか。付き合ってくれて、ありがとう」


「家まで行くよ」


「いいの?」


「そのくらい、通り道だろ」


「うちまで行ったら、通り過ぎてるけど」


 透は鞄を拾い上げた。せっかく大したことではないように言ったのだから、そこは聞き流しておいてほしかった。


「細かいことはいいんだよ。会計してくるから」


「待って。ここは私が出す」


 奈緒は先に伝票を取った。


「戻りたいって言ったの、私だし。透は帰りも歩かなきゃいけないんだから、コーヒーくらい出させて」


 取り返すのも大人げないので、透は財布をしまった。奈緒は礼を言わせる間もなく、レジへ向かった。


     *


 家までの道は、少し遠回りをした。


 奈緒が橋へ戻りたくないと言ったので、大通りから住宅街を回り込むことにしたのだ。こちらも通ったことはあったが、普段なら信号を待つのが面倒で使わない道だった。


 車の音が絶えず、歩道には店から漏れる明かりが続いていた。奈緒は時折、周囲へ顔を向けたが、立ち止まることはなかった。


「こっちだと、何も聞こえない」


 信号を待つ間に、彼女が言った。


「今は普通なのか」


「うん。でも、さっきも私には普通だったんだよね。透に言われるまでは」


 奈緒は横断歩道の向こうを見た。そこには、自転車を押した人と、仕事帰りらしい人が数人立っていた。


 透も同じ方を見たが、誰が本当にいるかを一人ずつ確認するのは、やめておいた。


「明日、昼にもう一度見ておきたい」


 奈緒が続けた。


「橋のところ。暗かったから、何か見間違えたのかもしれないし。あの道、ずっと避けて帰るわけにもいかないから」


「そうだな。明るいときなら、もう少し分かるかもしれない」


 信号が変わった。二人で歩き出し、渡りきったところで透は尋ねた。


「何時にする?」


「透も来るの?」


「来なくていいなら、昼まで寝てるけど」


「来て。寝るのは、もう一回見てからにして」


 遠慮なく言われ、透も少し笑った。


「十二時なら起きてるだろ。先に一人で下りるなよ」


「分かった。じゃあ、お店の前。透が遅れたら、私だけ先にお昼食べてるから」


「遅れないよ」


 寝坊を気にする予定が、来月より先に一つ増えた。


 奈緒の家の前まで来ると、玄関の明かりが点いていた。彼女は鍵を取り出しながら、透を振り返った。


「帰りも、こっちの道にしてね」


「うん?」


「橋を通らないで。今から一人で行って、何かあったら嫌だから」


 透は、帰りくらいは近道でよいかと思っていた。奈緒を送る理由と、自分の帰り道は別の話のつもりだったが、どうやら彼女にはそうではないらしい。


「分かった。さっきの道で帰るよ」


「着いたら連絡して。あと、今日のこと、勝手に人に話さないでね。ママには私から言うから」


「話さない。何を話せばいいのかも分からないし」


 奈緒は頷いたが、まだ何か言いたそうだった。透が待っていると、彼女は鍵を持った手を下げた。


「私が変なものを見たって、そういう話にされるのは嫌だから」


 その言い方で、何を気にしていたのかが分かった。昼休みの雑談にするなということだった。知っている人の不思議な体験は、話しているうちに、本人のいないところで面白くなっていく。


「しないよ」


 今度は、それだけ答えた。


 奈緒はようやく笑った。


「じゃあ、明日。今日はありがとう」


「明日は絵を描くんだろ。ちゃんと寝とけよ」


「透もね」


 扉が開き、奈緒が中へ声を掛けた。すぐに返事があったので、透はそちらへ軽く頭を下げ、来た道を戻った。


 橋へ抜ける角では曲がらなかった。誰かが見ているわけでもないが、着いたと連絡するときに、余計な嘘を一つ足すのは面倒だった。


 部屋に帰って、約束どおりメッセージを送ると、奈緒から写真が届いた。さっき橋の下で撮ったものだった。


『これ、送っておく。私はやっぱり、写ってないように見える』


 透は靴を脱いでから、玄関の上がり口へ座った。画像を大きくすると、街灯に照らされた塀と、その前の道が見えた。奈緒の肩越しに見たときと、同じだった。


『俺にもそう見える』


 返事をすると、少し間を置いて、もう一つ届いた。


『ママには話した。明日は明るいうちに帰ってきなさいって』


 透は『昼飯食べて、見たら帰ろう』と送った。奈緒からは、頷いている猫のスタンプが返ってきた。


 よく送られてくるスタンプだった。今日、奈緒の描いた絵を見たせいで、つい表情を比べてしまった。封筒に入っている方は、もっと不機嫌そうだった。


 立ち上がると、膝が少し重かった。歩いた距離より、気を張っていた方が疲れた気がする。風呂に入って寝てしまおうと思い、鞄を置いた。


 それでも、写真は閉じられなかった。


 透は画像の詳細を開き、撮影時刻をメモへ写した。子どもを探して拡大しても分からなかったが、何時にここにいたかくらいは残しておける。続けて、奈緒が服について言っていたことを書きかけ、やめた。自分が見たもののようになってしまう。


 代わりに、『奈緒には、撮っている間も見えていた』と書いた。


 明日の待ち合わせを入れるために予定を開くと、来月の手作り市が目に入った。集合時刻と、起きたら連絡するというメモがある。その下には、まだ消していなかった映画の予定が残っていた。


 透は映画の方を消し、明日の十二時にも通知をつけた。


 何がいるのかを知りたいというより、もう一度、奈緒が絵の話をしているところへ戻りたかった。そのために昼の橋を見る必要があるなら、行けばいい。自分に見えているのは、いつもの道だけなのだから。


 そう決めてから、透はもう一度、誰も写っていない写真を開いた。


 何もいないように見えることは、さっきまでなら安心する理由になったはずだった。

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