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世界はまだ、忘れている  作者: Feris


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3/3

隣にいる人

 奈緒は、駅の方から歩いてきた。


 家からなら橋を渡る方が近い。昨夜と同じように、大通りを回ってきたのだろう。透も今日はそちらを通った。待ち合わせを決めた本人が、一人で先に確かめに行っていたことになっては、少々まずい。


「ごめん、待った?」


「今来たところ。まだ十二時になってないだろ」


「ほんとだ。透の方が先にいると、私が遅れた気がする」


「たまには、俺も早く来るんだよ」


 実際には十分ほど待っていたが、そこまで正直に言う必要はなかった。寝坊をしなかったくらいで、褒めてもらいたいわけではない。少し驚いた顔を見られれば、それで十分だった。


 奈緒は昨日とは違う、薄い灰色の上着を羽織っていた。髪も後ろでまとめている。普段、休みの日に会うときと変わらない格好だったが、透の隣に来てからも、橋の方へは目を向けなかった。


「先に食べる?」


「そうしよう。帰ったらカードの続きを描くんだろ。腹ごしらえしてから」


「うん。朝、一枚だけ仕上がった。思ってたほど進まなかったけど」


 透は食堂の戸に手を掛けた。絵が描けたと聞いて安心したことは、言わないでおいた。せっかく絵の話をしているのに、こちらから昨夜へ引き戻すこともない。


 店の奥さんは二人を見ると、昨日も座ったことなど気にした様子もなく、空いている席を示した。透は窓から離れた方へ向かい、奈緒も何も言わずについてきた。


 注文を済ませると、彼女は鞄からメモ帳を出した。昨夜、手作り市の持ち物を書き込んでいたものだった。


「帰り、文具屋に寄ってもいい? カードを立てる台を見たいんだ。机に寝かせて並べるだけだと、通る人には見えにくいかなと思って」


「いいよ。どういうの?」


 奈緒は空いているところへ簡単な形を描いた。背の低い台に溝があり、そこへカードを差し込むらしい。


「前にお店で見かけたんだけど、一つずつ置くと場所を取るかな。こういうのを何個かにするか、横に長いものにするか、ちょっと迷ってる」


「机の大きさは分かってるんだろ。帰ったら一回、同じ広さに並べてみればいいんじゃないか」


「そう思って、朝、ダイニングのテーブルでやってた。途中でママが朝ご飯を持ってきたから、全部どけたけど」


「そりゃ、飯を食う机だからな」


「あと五分でよかったのに」


 奈緒は少し不満そうに言い、描いた台の横へ数字を書き込んだ。いま考えているのは、確かに売り場のことらしかった。透は椅子の背にもたれ、どの絵をどこへ置くのかという話を聞いた。


 途中で料理が来ると、メモ帳はすぐに片づけられた。昨日よりは手際がよかった。


 透がカレーを食べている間、奈緒は生姜焼きに箸をつけていた。昨夜はよく眠れたかと聞こうとして、やめた。また具合を確かめるような話にするのも、気が引けた。


 奈緒は、コップに水を注ぎながら透を見た。


「何か言いかけた?」


「いや。朝から絵を描いてたなら、ちゃんと起きたんだなと思って」


「起きたよ。透と違って」


「俺も今、ここにいるだろ」


「うん。今日は助かった」


 軽く返すつもりでいたのに、最後のところだけ、奈緒の声が少し変わった。


 透は水を飲んだ。店から出たら、何を確かめればよいのか。昼になれば昨夜と違って見えるかもしれないと言ったが、自分には昨夜も、普通の道が見えていた。変わってほしいものが何なのかを、ちゃんと考えていなかった。


「今日、何もなかったらさ」


 奈緒が箸を置いた。


「昨日のは見間違いだったってことに、なるのかな」


「そこまでは、分からないんじゃないか。今いないだけかもしれないし」


「だよね。そう思うと、何を見れば安心できるんだろう」


 透にも答えはなかった。何もなければ、それで終わりにできると思いたかったのは自分の方だ。


 奈緒はしばらく考え、それから箸を持ち直した。


「とりあえず、あそこが昼間どうなってるかだけ見たい。昨日、一人で通るのが怖くなっちゃったから。元から知ってる道なんだけどね」


「じゃあ、見てから買い物に行こう。今日一日、橋のところにいるつもりはないだろ」


「ない。紙も買って帰りたいし」


「そっちもあるのか」


「ある。透には荷物持ちを頼もうと思ってた」


 いつの間にか用事が増えていた。だが、それでよかった。昼飯を食べ、橋を見て、文具屋へ寄る。終わったあとに行く場所があるだけで、少しは出かけやすくなった気がした。


     *


 店を出ると、日が照っていた。


 橋までの道に、昨日の雨はほとんど残っていない。欄干へ先に着いた奈緒は、手を置きかけてやめた。日向の石が熱かったらしい。透は隣の影になったところから、下の道を見た。


 遊歩道には、買い物袋を提げた人が二人いた。橋の下をくぐり抜け、話しながら駅の方へ歩いていく。昨日、街灯の明かりが届いていた塀も、今日は上までよく見えた。その向こうから、洗濯物の袖が少しだけ覗いていた。


「どう?」


 透が尋ねると、奈緒は道を見たまま答えた。


「子どもはいない。でも、音はする」


「水の?」


「うん。下で流れてるみたい。昨日と同じ」


 透には聞こえなかった。念のために一度口を閉じてみたが、通りを走る車の音と、遠ざかっていく人の話し声があるだけだった。


 奈緒はこちらを見て、その顔だけで返事が分かったらしかった。


「透には、しないんだね」


「しない」


「そっか」


 落ち着いた声だった。そのまま欄干から手を離し、階段へ向かう。透もついていったが、先に下りてしまわないよう、横へ並べるところで歩調を緩めた。


 奈緒は足元を見ながら言った。


「昼なら平気かと思ったんだけど、そういうわけでもないんだ」


「怖いなら、上で見てるだけでもいいぞ」


「怖いけど、帰ったらまた気になると思う。昨日は途中から、どこを見てもよく分からなくなっちゃったし。明るいところで、もう一回見ておきたい」


 見に来ようと決めたのは奈緒だった。ここで透が、もう十分だと決めることでもなかった。


 ただ、何もない場所へ付き合って歩くのと、何かいるかもしれない場所へ付き合うのとでは、こちらの心構えも違う。相手が見えないままなのが、どうにも具合が悪かった。


 橋の下に入ると、地面に影の境目ができていた。昨日見た場所まで進み、透はスマートフォンの写真と道を見比べた。何が写っていたかではなく、どこから撮ったかを確かめるためだった。


「この辺だよな。奈緒が立ってたの」


「もう少しこっちかな。あの明かりの右に見えたから」


 奈緒が示した位置へ、透も寄った。今は消えている街灯が、塀の前に立っている。その下まで、特に何も遮るものはない。


 明るくなれば見落としたものが見つかるかもしれない、という期待は、そこでなくなった。元からよく見えていた道が、さらによく見えるだけだった。


 自転車が一台来たので、二人で端へ寄った。籠に大根の葉を載せた女の人が、軽く頭を下げて通り過ぎた。


 奈緒が、その背中を見送っていた。


「今の人は、見えてたよね」


「見えたよ。自転車の人だろ」


「うん。ごめん、いちいち聞くのも変だけど」


「聞けばいいだろ。今、何を見たかくらいは答えられる」


 奈緒は少し笑ったが、すぐに道へ目を戻した。


「全部確かめてたら、歩けなくなるね」


 透はスマートフォンをしまった。写っていない写真を持っているより、目の前で彼女が何を見ているのかを聞く方が、まだできることがありそうだった。


「音は、どこからするんだ?」


「それが分からない。橋の下だけじゃなくて、あっちの方からも。道に沿って、ずっと水が流れてるみたい」


 奈緒は遊歩道の奥を見た。そこに水がないことは、透にも分かる。それなのに流れていると言われると、地下のどこかを探したくなった。場所を見つけたところで、自分には音が聞こえないままかもしれなかったが。


「水は、見えないんだよな」


「見えない。透が立ってるところも、普通に道。だから、余計変なの」


 奈緒は足を一度踏み直した。靴の底で地面を確かめ、それから、納得できないまま顔を上げる。


「そこ、もう少し歩いてみてもいい? 次の道まで行けば、上に出られるから」


「いいよ。分かれるところまでにしよう」


 奈緒が頷いたので、二人で橋の影から出た。


 透は彼女の半歩前を歩きかけ、すぐに隣へ戻った。自分に見えるものしかなければ、前に立つ意味もあるだろう。何も分からないくせに先頭だけ歩いても、格好をつける場所を間違えている。


 奈緒はその動きを見て、透の袖を指でつまんだ。


「ここでいいから。一緒にいて」


「いるよ。さっきから」


「うん」


 彼女は手を離した。透は鞄を反対の肩へ掛け直し、奈緒の歩く速さに合わせた。


 いま彼女が望んでいるのは、怪しい場所へ先に入ってくれる人間ではないらしかった。それなら、引き受けた用事も少しは分かりやすい。


     *


 奈緒が足を止めたのは、次の街灯を過ぎる少し前だった。


 彼女は道の先へ顔を向け、何かを確かめるように、ゆっくり目を動かした。透も同じ方を見た。塀と植え込みの間に、日向の道が続いている。


「いた?」


「うん。昨日の子だと思う。向こうから歩いてくる」


 透は一度だけ、来た方を振り返った。橋まではすぐに戻れる。変なものに出会ったらどうするかという話はしていないが、少なくとも、今から奥へ追いかける必要はなさそうだった。


「服も同じ?」


「たぶん。今の方がよく見える。……こっちに気づいた」


 奈緒は手を上げかけ、透を見た。


「ちょっと、話してみてもいい?」


 何と、と聞きそうになった。彼女には相手が見えているのだから、聞き返しても仕方がない。


「話が通じるか、確かめたいのか」


「うん。普通に会えたのかと思ったら、変なのは私の方だったみたいで。昨日からずっと、それが気になってる」


 透は道の先へ目を戻した。子どもには会えないまま、奈緒の答え方だけを聞くことになる。


「ここからでいいだろ。向こうへついていくのは、やめとこう」


「分かってる。それはしない」


 奈緒は小さく頷き、道へ向き直った。


「こんにちは。昨日も、この辺にいたよね」


 透に聞こえたのは、その声だけだった。


 奈緒は少し待ち、それから笑った。


「うん、そう。手を振ってくれたから。ここ、よく来るの?」


 また間が空いた。相手の返事を待つ長さとしては、ごく普通だった。奈緒は頷き、途中で一度聞き返した。店で子どもの客と話すときも、こういう顔をするのかもしれない。


 透には、塀の上で揺れている洗濯物が見えていた。


「近くに住んでるんだって。ここには、よく遊びに来るみたい」


 奈緒が小声で教えた。


「今、どのくらい近くにいる?」


「あの、塀の色が変わってるところ。三、四メートルくらいかな」


 透は示された辺りを見た。相手もこちらを見ているのなら、さっきからずいぶん不愛想な男に思われているかもしれなかった。見えない相手にまで愛想のよさを求められても困るが、奈緒だけに任せているのも落ち着かない。


 彼女は子どもへ向き直った。


「名前、聞いてもいい?」


 すぐには次の言葉が出なかった。それから奈緒は、少し困ったように笑った。


「ああ、そうだね。知らない人には教えちゃ駄目だよね。ごめんね」


 透は思わず、奈緒の顔を見た。


 注意の仕方が、まともだった。こちらが勝手に妙なことを考えているだけで、向こうも知らない大人に話しかけられた子どもなのかもしれない。


 そう思いかけ、では何で自分には見えないのかと、話が元へ戻った。


「怒らせた?」


「ううん。おうちで、そう言われてるんだって。急に聞いた私が悪いね」


「近所の子を探してるみたいになったな」


「実際、どこの子か知りたかったんだけど」


 奈緒は少しだけ笑った。昨夜よりも、目の前の相手を怖がっていないように見えた。話せたことで、何か分かるかもしれないと思ったのだろう。透もそう思いたかった。


 奈緒が道の方へ顔を戻したところで、表情が変わった。


「……え?」


 透は彼女を見た。奈緒は返事を探すように少し黙り、それから自分の隣を指した。


「友達。一緒に来たの。昨日もいたんだけど」


 透は、どちらへ顔を向ければよいのか迷った。相手に紹介されているらしいことだけは分かったので、塀の色の変わる辺りへ軽く頭を下げた。


 奈緒は笑わなかった。道の先と透の顔を交互に見ている。


「ここ。私の隣に、立ってるでしょ」


 彼女が透の袖に触れた。


「何かあった?」


 尋ねると、奈緒はすぐには答えず、手を滑らせて透の手首を握った。昨日の帰りにも袖を掴まれたが、今度は場所を確かめるような触れ方だった。


「透、ちょっと手を上げてみて」


「こっちに?」


「うん。今、見てる方に」


 透は空いている手を上げた。挨拶なら、もう済ませたつもりだった。奈緒の反応を見て、冗談を言うのはやめた。


「これでいいか」


 奈緒は子どもの方を見たまま頷いた。


 返事があるまで、透は手を上げていた。道の向こうを自動車が一台横切り、家の窓に光が動いた。こちらから分かる変化は、それだけだった。


「……もういいよ」


 透が手を下ろすと、奈緒は道の先に向かって、また話しかけた。


「ううん、何でもない。ごめんね。そろそろ帰るから」


 別れの言葉を聞いて、透も体の向きを変えた。奈緒はまだこちらの手首を離さず、相手を見送っているようだった。透は急かさず待った。


 やがて彼女がこちらを向いた。


「あの子、透のことを聞いてたんじゃなかった」


「どういうこと?」


「誰と話してるのって。私が振り向くたびに、後ろを見てたの」


 透は自分の背後を見た。少し先に、二人でくぐってきた橋がある。こちら側から見れば、道はそこまでまっすぐだった。


「俺がいるって言ったんだろ」


「言った。手を上げてるって。でも、誰もいないよって」


 奈緒の指が、透の手首を握り直した。


 自分の立っている場所を、透は見下ろした。靴も影も、そこにあった。奈緒の手も、確かに自分の手首を掴んでいる。


 誰もいないはずがない、と言いかけて、透は口を閉じた。


 つい昨日、奈緒に同じことを言ったのは、自分だった。

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