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世界はまだ、忘れている  作者: Feris


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第一話 川の音

  奈緒が、窓の向こうで誰かに手を振っていた。


 食堂の前まで来た透も片手を上げかけたが、どうも自分に向けたものではなかった。彼女の顔は、今しがた渡ってきた橋の方を向いている。この街で育った奈緒には、透の知らない知り合いがいくらでもいた。


 上げかけた手で前髪を直し、引き戸を開ける。ちょうど振り返った奈緒が透に気づき、向かいの椅子から鞄をどけた。


「お疲れさま。アジフライ頼んじゃった。ご飯、普通でよかった?」


「うん。今日はもう、何でも食べる」


「そんなに忙しかったんだ」


 鞄を足元へ置いたところで、思っていたより長いため息が出た。奈緒の眉が少し寄ったので、透は先に手を振った。


「もう終わったから。とりあえず座らせて」


「座ってるじゃない」


「気分の話」


 奈緒が笑い、奥さんの運んできたお冷やを透の方へ寄せた。


 榊原透は二十七歳で、照明器具を扱う卸会社に勤めている。注文を受け、在庫を確かめ、出荷の段取りをつける。今日は午後いっぱい、型番の末尾につく一文字に振り回されていた。注文した人と確認した人と出荷した人が、それぞれ少しずつ間違えていたので、最後に電話を取った透が謝ることになった。


 必要な品物が明日の朝に届くと伝えたとき、電話の向こうの声が明るくなった。それで話は済んだはずなのに、受話器を置くと、終わらせたかった書類が机に残っていた。誰かの仕事は片づいても、自分の分までなくなるわけではない。そのくらいは、もう少し早く気づいてもよかった。


「透が間違えたわけじゃないんだ」


 かいつまんで話すと、奈緒が言った。


「少なくとも、間違った品番を決めたのは俺じゃない」


「なのに、ずっと謝ってたの?」


「最後は礼を言われたよ。だからもういい」


 奈緒はまだ何か言いたそうにしていたが、見なかったことにしておいた。ここで労わられると、つい余計なことまで愚痴りそうだった。金曜の夕飯を、仕事の反省会にするつもりはない。


 六月の夕方は、七時近くになっても明るかった。午後の雨は上がり、窓の向こうを、畳んだ傘を持った人が駅から戻ってくる。


 会社から電車で三駅の榎坂に住み始めて、三年になる。家賃と通勤時間で選んだ街だったが、今では買い物をする店も、遅い夕飯を食べる場所も決まっていた。この食堂を教えてくれたのも、一つ年下の友人、三枝奈緒だった。


 肩につく暗い髪を片側だけ耳に掛けた奈緒は、まだこちらの様子を窺っている。すっきりした鼻筋と、意志の強そうな目元の美人だった。こちらが黙っていると、言いそびれたことまで見つけられそうな気がする。


「そっちの話は? 荷物を運んでほしいんだっけ」


「ああ、うん。それもなんだけど」


 奈緒は鞄から、大きな封筒を取り出した。駅前の雑貨店に勤めていて、今日は早番だったと聞いている。封筒を押さえる指には、小さな絆創膏が巻かれていた。


「来月の最初の日曜、駅前の手作り市に出ることにしたの。そろそろ何か始めないと、来年も同じこと言ってそうだったから」


 出てきたのは、一枚ずつ透明な袋に入ったカードだった。紙に直接、猫や家具の絵が描かれている。奈緒が絵を描くことは知っていたが、売るために仕上げたものを見るのは初めてだった。


 透はお冷やを遠ざけてから、一枚を手に取った。


 猫が、植木鉢の間へ窮屈そうに収まっていた。顔に触れた葉を前脚で押しのけている。そのくせ、自分が出ていくつもりはなさそうだった。


「これ、いいな」


「猫の方? みんなそれが好きだね」


「奈緒は違うのか」


「好きだけど。いちばん時間がかかったのは、こっちなんだよね」


 押し出されたカードには、形の違う四脚の椅子が描かれていた。ひとつのテーブルを囲んでいる。透は袋の角を持って傾け、照明の映り込みを避けた。


「これ、映画館にあったやつ?」


「そう。休憩室の椅子。よく覚えてたね」


「座ると机ばっかり高くてさ。弁当を食べるとき、いつも肘の置き場に困ってた」


「なのに、いつもあそこ座ってなかった?」


「背もたれは楽だったから」


「ああ、寝る方か」


 奈緒は納得したように言った。


 二人は大学時代、同じ映画館でアルバイトをしていた。休憩が重なると、店内の案内を描く奈緒の横で、透が弁当を食べた。彼女がペンを片づけるのを待つうちに、眠ってしまったこともある。


 あれから八年になる。映画館は数年前に閉まり、最後に二人で行こうという約束も、予定を合わせているうちに果たせなくなった。あの椅子がこんなところに残っているとは思わなかった。


「これもいい。猫と並んでると、先に猫を見ちゃうけど」


「それなんだよね。並べ方、もう少し考えようかな」


 奈緒はカードの位置を入れ替えた。透が見比べていると、待ちきれなかったのか、机へ身を寄せる。


「こっちにしたら、どう?」


 顔を上げると、奈緒がこちらを見ていた。右の虹彩にある小さな琥珀色の部分が、窓からの明かりでよく見えた。知り合ったころから、そこだけ周りより色が薄い。


 絵を見ろと言われているのに、本人の顔を見ていても仕方がなかった。透はカードへ目を戻した。


「さっきより、椅子の方も目に入る。こうやって変えるだけでも違うもんだな」


「もう少し広い机で試してみようかな。ここだと、すぐ端っこに行っちゃうし」


 言っているところへ、定食が運ばれてきた。


「あ、ごめんなさい。今どけます」


 奈緒がカードを集め、透は箸立てを寄せて、渡された封筒を受け取った。


「それ、折らないでね。……あ、いや、普通に持ってくれればいいんだけど」


「分かってるって」


 奈緒は透が封筒を窓際へ置くまで、手元を見ていた。気になるなら自分で持っていればいいのに、とは言わなかった。そのくらい大切なのは分かる。


 大きなアジフライと、山になったキャベツが並んだ。透は最初の一口を急ぎすぎ、熱さに息を吸った。奈緒がこちらを見たので、何でもない顔でお冷やを取る。待てばよかったのは自分でも分かっている。


「それで、来月の日曜。空いてる?」


 透はスマートフォンで予定を開いた。


 古い映画の特集上映が入っていた。好きな二本が続けてかかるので、先月から楽しみにしていたものだった。まだ席は取っていないし、誰かと約束しているわけでもない。


 奈緒は返事を待つ間、封筒の端を指で押さえていた。


「空いてるよ。何時から?」


「八時半に駅前。九時から会場に入れて、終わるのが三時。片づけも入れたら四時くらいかな」


「丸一日じゃないか」


「だから、ちゃんと聞いてるんでしょ。荷物だけ運んでもらって、あとから帰さないのは悪いと思って」


 帰さないつもりはあるらしかった。


「俺がいるのはいいけど、絵の話を聞かれても答えられないぞ」


「そこは私が話すよ。透は、私が席を外したときにいてくれたらいいから」


「分かった。あとは邪魔にならないところに——」


「暇でも帰らないでね」


 先に言われて、透は顔を上げた。


「ずっと横にいたら、やりにくいかと思ったんだよ」


「やりにくかったら、私が言う」


 確かに言うだろう。封筒を預かっただけで、折らないよう念を押されたばかりだった。


「ほかにも誰か来るの?」


「ママが車で荷物を運んでくれるけど、設営したら帰るって。そのあと用があるから」


 奈緒は皿へ目を落とし、キャベツを少しずつまとめた。


「申し込んだときは、楽しみだったんだけどな」


「いまは?」


「大後悔中。ほかの出店者の紹介を見たら、みんな普通にお店を持ってそうな人ばっかりで。私、何でいけると思ったんだろう」


「いや、これなら——」


「大丈夫は言わなくていいよ」


 透は口を閉じた。奈緒は顔を上げ、少し申し訳なさそうに笑った。


「ごめん。でも、本当に売れるかどうかは分からないから」


「じゃあ、何て言えばいいんだよ」


「別に、何も言わなくてもいい」


 それも困る。頼み事をされていたはずなのに、いつの間にか、正解の分からない相談になっていた。


 透が黙っていると、奈緒はフライを一口食べた。こちらが返事を考えている間に食事を再開するくらいの余裕はあるらしかった。


「一人だとさ」


 飲み込んでから、彼女は続けた。


「誰も来ない時間に、余計なことを考えそうなんだよね。今の人は何が気に入らなかったんだろうとか、隣のお店は売れてるなとか。透がいたら、少なくとも口には出せるし」


「俺はそれを、一日聞くのか」


「嫌?」


 今度は、冗談だけの聞き方ではなかった。


 透は窓際の封筒を見た。あの猫も椅子も、誰かが気に入って買っていったらいい。奈緒がそれを嬉しそうに見送るところも、見てみたかった。


「嫌とは言ってない。腹が減ってると、ろくな返事をしなくなるから、飯だけは食わせてくれ」


「それは食べて。私も食べるし」


「じゃあ、終わるまでいるよ。絵が全部並んだところも見てみたいしな」


 奈緒は笑って、それから、もう一度透の顔を確かめた。


「本当にいい? せっかくの日曜なのに」


「今、行くって言ってるだろ」


「うん。じゃあ、お願い」


 ようやく安心したように、奈緒がメモ帳を開いた。透は予定の画面を閉じた。映画はまた観られる。あの二本が続けてかかる機会まで、すぐに戻ってくるわけではなかったが、奈緒にそれを言う必要はない。聞けば気にするに決まっている。


 それに、横に座っているだけで気が楽になると言われて、悪い気はしなかった。そんなに嬉しそうな顔をするのもどうかと思い、透は残りのご飯を口に運んだ。


「起きたら連絡してね。駅でずっと待つのは嫌だから」


「八時半に着けばいいんだろ」


「着かなかったことがあるから言ってるの」


「あの映画の話、いつまで覚えてるんだ」


「来月ちゃんと起きたら、少し忘れる」


 奈緒はメモ帳へ何か書き込んだ。透は覗きかけたが、寝坊のことまで残されていたら嫌なのでやめた。


「お昼は私が作っていくね。食べやすいものにするから」


「会場で買えばいいよ。前の日、商品の用意で遅くなるだろ」


「簡単なものなら、そんなにかからないって」


「前にもそう言って、朝から揚げ物してたじゃないか」


「……あれは、私が食べたかったから」


 奈緒は少し考え、メモ帳の一行を消した。


「じゃあ、朝のパンは買っておく。それならいい?」


「いいけど、こっちで買っていっても——」


「私が買っておくから。何がいい?」


 最後まで言わせてもらえなかった。ここまで引き受けるのは、余計なことらしい。


「卵のやつ。あと、甘いのも一つ」


「二つ食べるんだ」


「一日働かせるんだろ」


「はいはい。コーヒーもつけるね」


 そう言って書き込む奈緒は、楽しそうだった。透も何となく機嫌がよくなっていたが、パン二つで話がついたように見られるのは心外なので、黙ってお冷やを飲んだ。


 食事が済むと、奈緒はカードを片づけ始めた。透は、袋の端を押さえる指の絆創膏を見た。


「それ、袋に入れてて切ったのか」


「うん。描き終わったのから入れてるんだけど、急いだら紙の端で。まだ描きかけもあるし、明日はそっちを進めたいんだよね」


「袋に入れる方なら手伝えるぞ。絵は無理だけど」


「ありがとう。でも、そこまで自分でやりたい。袋に入れると、ちゃんと売り物になった感じがするから」


 奈緒は一枚を持ち上げ、袋の中で少し傾いていた紙を直した。


「その代わり、当日は手伝ってね。荷物は自分で運んでも、別に嬉しくないし」


「そこは分かってるよ」


 袋に入れるだけなら誰がやっても同じかと思ったが、彼女にはそうでもないらしかった。透は出しかけた手を引き、コップを取った。


 猫のカードがしまわれる前にもう一度見ようとすると、奈緒がその一枚だけを抜いて、透の前へ置いた。


「これ、あげる」


「売るんじゃないのか」


「そのつもりだったけど。透、気に入ったんでしょ」


 確かに気に入っていた。受け取って眺めていると、奈緒はほかのカードを封筒へ戻し始めた。もう話が済んだことになっている。


「いや、待って。これは当日に買いたいんだけど」


「……あげるって言ってるのに」


「欲しくないんじゃないよ。奈緒の店に並んでるところを見てから買いたいんだ」


 奈緒は封筒を閉じかけたまま、透を見た。


 説明すると大げさになった。ただで受け取るのが嫌なのでも、遠慮しているのでもない。初めて店を出す日に、そこから一枚買って帰りたいだけだった。


「予約ってできないのか」


「できるけど。変なところで頑固だよね」


「奈緒も、なかなか引っ込めないだろ」


「せっかくあげようと思ったんだもん」


 それには言い返せなかった。しばらくカードを持ったままでいると、奈緒が小さく笑い、手を差し出した。


「分かった。当日まで預かっておく」


 猫のカードは、ほかとは分けて封筒へ戻された。


「寝坊したら、これが待ってると思って来てね」


「奈緒を待たせる方が怖いよ」


「ちゃんと分かってるならいいです」


 奈緒は満足そうに封筒を閉じた。透はスマートフォンに集合時刻を入れ、起きる時間にも通知をつけた。


 会計を済ませて外へ出ると、空にはもうほとんど明るさがなかった。通りの街灯が点き、店の前に立つ二人を避けて、仕事帰りの人たちが坂を上っていく。


 奈緒の家へ向かう道は、橋を渡ったところで透の帰り道と分かれる。食事をした日は、いつもそこまで一緒に歩いた。


「ねえ、あの椅子、本当によく覚えてたね」


 奈緒が言った。


「座るたびに、机が高いと思ってたからな」


「ほかの人には、何であれを描いたのか、あんまり伝わらなくて。店で売ってるおしゃれな椅子でもないし」


「何年も座ってたからな。あれを描くのは、奈緒くらいだろうけど」


「変?」


「いや。残っててよかったと思った」


 奈緒は少し黙り、それから「そっか」と言った。さっきの猫の絵の話よりも、静かな返事だった。


 透もそれ以上は言わなかった。代わりに休憩室の冷蔵庫の話をした。扉の上を強く押さないと閉まらず、次に開けた人が前の人の分まで怒られたものだ。奈緒は、自分は絶対に閉めていたと言い張った。


 橋に差しかかったところで、彼女がふと足を止めた。


「ねえ、まだ遊んでるみたい」


「誰が?」


「子ども。来るとき、橋のところにいたんだよ。お店の窓から見たら手を振ってくれたから、知ってる子かなと思ったんだけど」


 さっきの挨拶はそれだったらしい。自分に向けたものではなかったと、わざわざ確認するほどの話でもなかった。


 奈緒は欄干へ近づき、下を覗いた。


「水遊びかな。今日、雨が降ったし」


 透も隣に立った。


 橋の下を、細い遊歩道が通っていた。両側には低い植え込みがあり、少し先の街灯の下を、犬を連れた人が歩いている。昔の川を埋めて道にしたのだと、奈緒から聞いたことがあった。


 舗装には濡れたところが残っていたが、遊べるほどの水溜まりは見えない。子どもの姿もなかった。


「橋の下?」


「たぶん。ここからじゃ見えないけど、笑ってるでしょ」


 透は声を探した。


 頭の後ろで自転車のベルが鳴り、通りの人が脇へ寄った。前を歩いていく二人組の会話も聞こえる。橋の下からは、何も聞こえなかった。


「俺には聞こえないけど」


「ほら、今も。水をばしゃばしゃやってるみたいな音」


 奈緒はそう言い、下の道へ顔を向けたまま待った。透も口を閉じていたが、聞こえるものは変わらなかった。


 彼女が何を聞いているのか、見当もつかない。


「下りたら分かるかな」


 奈緒がたもとの階段を見た。


「見てみようよ。橋の陰にいるなら、すぐそこだし」


 透には特に見たいものもなかったが、ここで一人だけ先に帰るほどの用事もなかった。奈緒が気にしているのなら、下まで付き合えば済む。


「いいよ。足元、まだ濡れてるから気をつけて」


「分かってる。透もね」


 奈緒が鞄を掛け直し、透の横に並んだ。


 階段を下りると、通りの人の顔が見えなくなった。足元の明かりは、橋の両側にある街灯だけだったが、向こうの出口までは見通せる。道の継ぎ目に草が生え、端の方には雨で流れてきた葉が寄っていた。


 子どもはいなかった。


「誰もいないな」


「向こうへ行っちゃったのかな」


 奈緒は出口の先を見た。透には、犬を連れた人が遠ざかっていく背中だけが見えた。


「まだ聞こえる?」


「うん。ここ、すぐそばで水が流れてるみたいなんだけど」


 透は奈緒の見ている辺りへ目を向けた。地面も、その脇の植え込みも、普段どおりだった。足を動かせば靴底が舗装を擦り、その音だけが橋の下で少し響く。


 彼女はからかっているのだろうか。


 けれど奈緒は透の顔色を見ていなかった。いたずらなら、そろそろ反応を確かめたがるはずだ。視線はずっと出口の方へ向いたままだった。


 分からないものを分からない顔で見ていると、奈緒まで不安になりそうだった。透は意味もなく、片手をポケットへ入れた。少なくとも、自分には何も起きていない。


「上の家の音が響いてるんじゃないか。窓が開いてるところもあるし」


「そうなのかな。でも——」


 奈緒が言葉を切った。


 それから、誰かに気づいたように顔を上げた。


「あ、いた。やっぱり、さっきの子だ」


 透もそちらを見た。次の街灯が、遊歩道の上に丸く明かりを落としている。


「どこ?」


「あそこ。明かりのすぐ右。こっち見てる」


 奈緒は小さく手を振った。


 透は彼女の肩越しに見て、それから半歩横へずれた。何かが隠れていたわけではなかった。街灯の右には住宅の塀があり、足元まで遮るものはない。道も、塀の前も空いていた。


 奈緒は笑っていた。食堂の窓越しに見たのと同じ、顔見知りへ挨拶するような笑い方だった。


「透にも振ってるよ」


 袖を軽く引かれたが、透は手を上げなかった。


 平気な顔をしていることくらいならできる。けれど、彼女と一緒に挨拶を返す相手は、どこにも見つからなかった。

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