棚の奥への封印
開店前の店は、まだ外の光が柔らかく、静けさが残っていた。
仕込みの準備をしていた店長が顔を上げたとき、ドアベルが軽く鳴った。
「おはよ」
入ってきたのは、近所のバーの女性店主だった。
気さくな笑顔のまま、手には小さな紙袋。
「これ、旅行のお土産。店長の好きなウイスキー」
「え、マジで? わざわざありがとね」
声が妙に明るくなっている。
店長の表情が緩むのを、音羽はレジ奥から見ていた。
(……へぇ)
会話は短い。
仕事前の、ただの挨拶と交換。
それ以上でも以下でもないはずなのに、カウンター越しに並ぶ二人の距離が、妙に近く見える瞬間がある。
紙袋が置かれ、軽い世間話が数分続いたあと、女性は「じゃ、また」と手を振って帰っていった。
ドアベルがもう一度鳴る。
店内に、元の静寂が戻る。
その、直後だった。
──ダンッ。
乾いた音が店内に響いた。
音羽がカウンターを拭き始めていた。
だが、明らかに、強い。
強すぎる。
「……あの、音羽さん」
店長は厨房から思わず声をかける。
「カウンターの塗装が剥げるよ?」
「別に」
即答。
「汚れていたので、徹底的に綺麗にしているだけです」
台ふきんが、容赦なく往復する。
キュッ、キュッという摩擦音が、やけに鋭い。
店長は少しだけ困った顔になる。
「いや、さっきまでそんな汚れてなかったよね?」
「気のせいです」
しばしの間。
台拭きの動きは止まらない。視線も上がらない。
「それより」
ようやく音羽が言った。
「さっきのお酒」
「うん?」
「アタシが棚の奥に『封印』しておきますね」
「えっ、封印!?」
ようやく手が止まる。
音羽はゆっくりと顔を上げた。
表情はいつも通り──のはずなのに、どこかだけ違う。
やけに静かで、やけに整っている。
「だって、店の備品じゃないですよね」
「いや、普通にいただき物だし……」
「保管ルール的に不明です」
「そんなルールうちにないよ」
「今作りました」
店長は一瞬だけ黙った。
そして、降参するように小さく息を吐く。
「……嫉妬してる?」
その言葉が落ちた瞬間。
音羽の動きが止まる。完全に。
数秒。
沈黙のなかで、彼女の耳の付け根が、じわじわと赤く染まっていく。
そして、
「してません」
断言だった。
しかし、台ふきんはさっきよりもさらに力強く机を滑っていく。
店長はその分かりやすすぎる様子を見て、少しだけ笑ってしまう。
「じゃあ封印はやめてよ」
「……検討します」
「検討なんだ」
厨房の奥で、仕込みの鍋が小さく音を立てる。
その音に紛れるように、音羽はぽつりと小さく呟いた。
「……ああいうの、普通に困るんですけど」
聞こえないくらいの声だった。
自分の知らない店長の『好み』を、他の誰かが知っていること。
それが、なんだか無性に面白くない。
でも店長には、彼女の言葉のトゲの理由が、なぜかちゃんと届いた気がした。
「わかった。じゃあ、それ、今日の夜にでも二人で開けようか」
「……」
音羽は一瞬だけ動きを止め、それから「……おつまみ、アタシが作ります」と、背中を向けたまま、やっぱり硬い声で言った。
店は、いつも通りの準備へと戻っていく。
少しだけ、空気の温度を熱く変えたまま。




