表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
8/14

棚の奥への封印

 開店前の店は、まだ外の光が柔らかく、静けさが残っていた。


 仕込みの準備をしていた店長が顔を上げたとき、ドアベルが軽く鳴った。


「おはよ」


 入ってきたのは、近所のバーの女性店主だった。

 気さくな笑顔のまま、手には小さな紙袋。


「これ、旅行のお土産。店長の好きなウイスキー」

「え、マジで? わざわざありがとね」

 声が妙に明るくなっている。


 店長の表情が緩むのを、音羽はレジ奥から見ていた。

(……へぇ)


 会話は短い。

 仕事前の、ただの挨拶と交換。

 それ以上でも以下でもないはずなのに、カウンター越しに並ぶ二人の距離が、妙に近く見える瞬間がある。


 紙袋が置かれ、軽い世間話が数分続いたあと、女性は「じゃ、また」と手を振って帰っていった。

 ドアベルがもう一度鳴る。

 店内に、元の静寂が戻る。


 その、直後だった。


──ダンッ。


 乾いた音が店内に響いた。

 音羽がカウンターを拭き始めていた。


 だが、明らかに、強い。

 強すぎる。


「……あの、音羽さん」

 店長は厨房から思わず声をかける。


「カウンターの塗装が剥げるよ?」


「別に」


 即答。


「汚れていたので、徹底的に綺麗にしているだけです」


 台ふきんが、容赦なく往復する。

 キュッ、キュッという摩擦音が、やけに鋭い。


 店長は少しだけ困った顔になる。

「いや、さっきまでそんな汚れてなかったよね?」


「気のせいです」


 しばしの間。

 台拭きの動きは止まらない。視線も上がらない。


「それより」

 ようやく音羽が言った。

「さっきのお酒」

「うん?」


「アタシが棚の奥に『封印』しておきますね」


「えっ、封印!?」


 ようやく手が止まる。

 音羽はゆっくりと顔を上げた。

 表情はいつも通り──のはずなのに、どこかだけ違う。

 やけに静かで、やけに整っている。


「だって、店の備品じゃないですよね」

「いや、普通にいただき物だし……」

「保管ルール的に不明です」

「そんなルールうちにないよ」


「今作りました」


 店長は一瞬だけ黙った。

 そして、降参するように小さく息を吐く。


「……嫉妬してる?」


 その言葉が落ちた瞬間。

 音羽の動きが止まる。完全に。


 数秒。

 沈黙のなかで、彼女の耳の付け根が、じわじわと赤く染まっていく。


 そして、


「してません」


 断言だった。

 しかし、台ふきんはさっきよりもさらに力強く机を滑っていく。


 店長はその分かりやすすぎる様子を見て、少しだけ笑ってしまう。

「じゃあ封印はやめてよ」

「……検討します」

「検討なんだ」


 厨房の奥で、仕込みの鍋が小さく音を立てる。

 その音に紛れるように、音羽はぽつりと小さく呟いた。


「……ああいうの、普通に困るんですけど」


 聞こえないくらいの声だった。

 自分の知らない店長の『好み』を、他の誰かが知っていること。

 それが、なんだか無性に面白くない。


 でも店長には、彼女の言葉のトゲの理由が、なぜかちゃんと届いた気がした。


「わかった。じゃあ、それ、今日の夜にでも二人で開けようか」


「……」


 音羽は一瞬だけ動きを止め、それから「……おつまみ、アタシが作ります」と、背中を向けたまま、やっぱり硬い声で言った。


 店は、いつも通りの準備へと戻っていく。

 少しだけ、空気の温度を熱く変えたまま。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ