厨房 いつもの聖域
その日のディナー営業が終わり、最後の皿を洗い終えた深夜の厨房。
いつもと変わらない、静かで少しだけ冷えた空気。
音羽はホールの片付けを終えて厨房に戻ると、いつものように壁の元栓を確認し、声をかけた。
「店長、ガス閉めました」
10年間、毎日、何千回と繰り返してきた、営業終了の合図。
シンクを拭いていた店長は、手を止めると、いつも通りの穏やかなトーンで振り返った。
「ありがとう」
それから、しばらく沈黙が流れた。
いつもなら「じゃあ、終わろうか」と続くはずの瞬間。
けれど二人は動かない。
ブーーン、という、少し年季の入った換気扇の回る音だけが、店内に低く響いていた。
店長は赤くなった首筋を触ることもせず、真っ直ぐに音羽を見つめた。
「音羽さん」
「はい?」
「十年前から、ずっと一緒に店を守ってくれてありがとう」
音羽は少し驚いて、目を丸くした。
また何か、構って欲しいだけか、それとも法人化の実務的な話が始まるのかと思った。
だけど、店長の茶色い瞳は、今まで見たこともないほど深く、静かで、揺るぎない光を湛えていた。
店長は一歩だけ、距離を詰める。
「これからも店を一緒に守ってほしい」
一拍、置いて。
換気扇の音が、やけに遠くに聞こえた。
「店だけじゃなくて、俺の人生も」
店長はポケットから小さな箱を出す。
「俺も、君の人生をずっと守って行きたい」
片膝をついて、小さな箱を開きながらいった。
「結婚してください」
「ッ、」
──その瞬間、音羽の頭の中は真っ白になった。
ここ数日、「どうせあの店長のことだから、斜め上のサプライズでも仕掛けてくるに違いない」「だったら、アタシが世界一の女優になって、騙されたフリをしてあげよう」「怪しい動きはしてないし、平日の今日はないだろう」なんて、あれこれと可愛い計算を巡らせていたのだ。
──なのに。
こんな、いつもの仕込みの続きみたいなトーンで、ガスを閉めた直後に、あまりにも真っ直ぐに言われるなんて、夢にも思っていなかった。
あれやこれやと考えていたことが、すべてが一瞬で消し飛んだ。
視界が、急激に熱い涙で遮られる。
ボタボタと大粒の涙が、厨房の床に落ちていく。
音羽は、ただ子供のように泣きじゃくりながら、何度も、何度も小さく頷いた。
「……はいっ、……はい……っ」
それしか、言えなかった。
胸がいっぱいで、言葉にならなくて、ただ世界で一番大好きな人の前で、一人の恋する少女として泣くことしかできなかった。
そんな音羽の姿を、店長は愛おしそうに、優しく目を細めて見つめている。
いままで、店長は「プロポーズをするため」に店を特別な場所に変えようとしていた。
でも今日は違った。
何か特別なことをする必要なんて、最初からなかったのだ。
数分後。
音羽はエプロンで涙を拭うと、まだ少し赤い目のまま、いつもの優秀な従業員の顔に戻って、トントンとコールドテーブルを突いた。
「……店長」
「ん?」
「いま思い出しました。発注したひき肉が少ないです。このままだと明日のランチの途中でハンバーグが売り切れます」
プロポーズの直後、あまりにもシビアな発注の連絡。
店長は一瞬呆気に取られたあと、こらえきれずにお腹を抱えて大笑いした。
「あはは! 本当だ、完全に計算間違えてた!」
「笑い事じゃありません。ちゃんと確認してください、店長」
「はいはい、すんません。音羽さん」
店長は笑いながら頭を掻き、音羽は注文数を電卓で弾き始める。
ロマンティックとはほど遠い光景だった。
だけど、二人にとっては、これが最高に愛おしくて、最高に幸せな「いつもの夜」だった。
一軒の洋食店と、そこに生きる二人。
10年間積み上げてきた完成形の方程式は、明日からも、この厨房から何一つ変わらずに、美味しい匂いと一緒に紡がれていくのだった。




