前哨戦のブレインストーミング
音羽から「結婚しちゃった方が実務上楽なんじゃないですか」という特大の提案をうけてから、丸三日。
俺は、人生で最も激しく頭を抱えていた。
法人化を決意するとき、役員になってくれって言ったのは、俺の中では一生一緒にいようっていう意味だった。
その後、まさか税理士事務所であんな風に言われるなんて……。
世間一般的にみて、夫婦という形は大事なんだろうな。
やっぱり『お店の話』に逃げちゃダメなんだ。
音羽は「実務的でいい」と言ってくれた。
10年一緒にいて、お互いの空気感はもう熟年夫婦のそれだ。
だけど、だからこそ、ちゃんと男として、付き合う前の恋人に送るような、最高に格好いいストレートな言葉でプロポーズしたい。
──だが、ヘタレな自分にそれができるのか?
営業の終わった暗い厨房で、俺は一人、仕込み用のノートに猛烈な勢いでペンを走らせていた。
いつもなら新作メニューのアイデアが並ぶはずのページには、今、おぞましい量の迷走の跡が刻まれている。
【案1】指輪をまかないのオムライスの中に仕込む
⇒ 却下:音羽さんがオムライスごとスプーンで叩き割る可能性大。危険。
【案2】夜景の見えるレストラン(リベンジ)
⇒ 却下:また他店研究会になって終わる未来しか見えない。
【案3】税理士の前で「じゃあ、これで」と婚姻届を出す
⇒ 却下:ムードがマイナス100点。男としてさすがに情けなさすぎる。
──違う、そうじゃないんだ……っ。
俺は頭をガシガシと掻きむしった。
──どうする!? どうする俺……っ!
「店長ー。何やってるんですか、もう上がっちゃいますよ」
「うわぁっ!?」
突然、背後から声をかけられ、飛び上がった。
いつの間にか私服に着替えた音羽が、厨房をのぞき込んでいた。
「な、何でもないよ! ちょっと、夏野菜の仕入れルートの計算をしててね!」
俺は、あわててノートをバタンと閉じた。
音羽はそんな俺をじーっとジト目で見つめると、ふっと小さくため息をついた。
その耳が、三日前と同じようにほんのりと桃色に染まっているのを見逃さなかった。
「……そうですか。無理して変なメニュー思いつかないでくださいね。アタシは今の店の味が、世界で一番好きですから」
「え、あ、うん……ありがと」
「じゃ、お先に失礼します。戸締まり、よろしくお願いしますね。店長」
そう言って、音羽は少しだけ名残惜しそうに、けれどいつもの優秀な従業員の足取りで店を出て行った。
ドアベルがカランと優しく響く。
静まり返った厨房で、店長は閉じたノートを見つめながら、深く、深く息を吐き出した。
やっぱり、お茶を濁すようなプロポーズじゃ絶対にダメだ。
「よし……。やるぞ」
俺は再びノートを開くと、【案4】の欄に大きくこう書き込んだ。
【案4】最高の『店の話』の延長線上で、世界一真っ直ぐ伝える。
俺の、空回りだらけの「プロポーズ大作戦」。
音羽の完璧な防衛線を突破するための、長く、じれったく、そして最高に温かい前哨戦のブレインストーミングが、今まさに始まったのだった。




