登記簿の空欄
法人化しよう。
そう決めた瞬間までは勢いだった。
問題は、その次である。
「……で、何から始めればいいんだ?」
というわけで、俺たちは税理士事務所へ向かっていた。
「なるほど、ではお二人が発起人、および取締役となるわけですね」
眼鏡をかけたベテランの税理士は、提出された書類に目を落としながら指でなぞった。
そして、実務的なトーンで、ごく当たり前の質問を投げかけてきた。
「確認ですが、お二人のご関係は?」
その問いに、声がハモってしまった。
「「共同経営者です」」
「あ、いえ、ビジネス上の役職ではなく、プライベートでのご関係です。会社を長く続ける前提で考えると、お二人の関係性も設計に関わりますので……。ご夫婦では?」
「「違います」」
なぜか、音羽とのコンビネーションは完璧だった。
税理士は少し不思議そうに首を傾げる。
「では、ご親族ですか?」
「違います」
「では……婚約中、とかでしょうか?」
「違います、ただの店長と従業員で──」
そこまで言って、音羽の言葉がピタッと止まった。
そうだ、客観的にみたら、今はただの店長と従業員。
だが、これから作ろうとしている会社の登記簿には、二人の名前が「共同経営者」として並ぶ。
少なくとも俺は、次の十年も、その先も、ずっと一緒にこの店を守っていくと疑いもなく信じている。
音羽もきっと同じ気持ちだと思う。
──それなのに、自分たちの関係を示す「一般的な言葉」が、どこにも見当たらない。
重苦しい応接室に、時計の針の音だけが響く。
気まずい沈黙の中、音羽とゆっくりと顔を見合わせ、そして、驚くほど間抜けな顔で同時に固まった。
……そういえば俺たち、何なんだ?
10年間、主語を「店」にし続けた弊害が、ここに来て完全に裏目に出ていた。
打ち合わせを終え、逃げるように店へと戻ってきた。
暗い厨房に明かりを灯し、コーヒーをすするものの、二人の間の空気はいつになくそわそわと落ち着かなかった。
俺は熱くなった首筋をペタペタと触りながら、おずおずと口を開く。
「いやぁ、焦ったね。関係性を聞かれて固まるなんて思わなかったよ。……やっぱり、世間一般から見たら、俺たちの距離感って変なのかな」
音羽はコーヒーカップを見つめたまま、いつも通りの、あまりにも冷静で実務的なトーンでこう言った。
「……いっそのこと、結婚しちゃった方が、いろいろと楽なんじゃないですか?」
「ふぇ?」
俺は、変な声がでてしまった。
「け、結婚!? 音羽さん、今なんて言ったの!?」
「ですから、実務的な話です。夫婦なら、手続きとかも余計な面倒が減りますし、銀行なんかでも有利ですよ。何より、さっきみたいに『ご関係は?』って聞かれたときに、一言で説明がつきます」
淡々と、まるで明日の仕込みのスケジュールを説明するかのように言い切る音羽。
そんな様子を見ていたら、俺はもう頭の中が真っ白になってしまった。
「い、いやいやいや! いくらなんでも、それだけの理由で結婚する人いる!?」
これではまるで、付き合う直前の高校生じゃないか。
音羽はカップをそっとカウンターに置くと、ゆっくりと立ち上がり、俺の目をじーっと見つめた。
先日の「至近距離ロックオン」のときのような、真っ直ぐな瞳。
音羽の耳が、ほんのりと桃色に染まっていく。
けれど、彼女は一歩も引かない。
そして、放たれた言葉は、小さな声なのに、俺には不思議なくらい強く響いた。
「……アタシは別に、その理由でも構いませんけど」
「──ッ、」
俺は、完全にフリーズした。
思考回路が全停止し、口を開けたまま、彫刻のように固まってしまう。
「……っ、もういいです! とにかくアタシは実務的な提案をしただけですから! 早くコーヒー飲んでください!」
音羽は顔を隠すようにバッと背を向け、コーヒーをすするのだった。




