遺されたレシピ
それは、俺が健康診断後の精密検査から戻ってきた、数日後のことだった。
もうすぐ40代を迎える俺の心には、今までになかった小さな、だけど消えない「将来への不安」が影を落としていた。
──もし、万が一……俺に何かあったら、この店と、音羽はどうなるんだろう。
それからの俺は、何かが取り憑いたように動き始めた。
普段は感覚で叩き込んでいたデミグラスソースの隠し味や、ハンバーグの正確な配合を、ミリグラム単位で細かく仕込みノートに書き写していく。
「音羽さん、今日のオムライスの卵、ちょっと巻いてみてくれる? うん、上手上手。これからはディナーの軽いメニュー、少しずつ音羽さんにも任せようと思ってさ」
俺は努めていつも通り穏やかに笑う。
けれど、その笑顔の裏には「自分がいない未来の準備」がつきまとっている気がしていた。
詳細すぎるレシピは、まるで『遺言』のようだ。
──翌日
「店長」
書類を整理していた俺の前に、音羽はいつもの冷静なトーンで話しかけてきた。
「ん? どうしたの、音羽さん」
「うちの店、売上も安定していますし……そろそろ、法人化しましょう」
「え……? ほうじんか?」
唐突な提案に、俺はマヌケな声を上げていた。
そんな俺の目を、音羽は至近距離から真っ直ぐに見つめる。
「そうです。個人事業主のままでは、経営の幅も限られますし、社会的信用も違います。銀行や取引先への交渉力も上がります。税金だって安くなるんです」
「そっ、そういうもんかねー。でも今の所そんなに、こまってないしなぁ」
煮え切らない俺に対して、音羽は早口でまくし立てた。
「それに、お店の借金やトラブルの責任も会社役員なら『有限責任』になります。お店の万が一が、店長個人の生活や人生を破滅させるリスクを、法的に切り離せるんです」
「ゆうげんせきにん!? なんだか面倒な方向に話が進んでないかい」
息をきらせて喋っていた音羽は、急に子供のように俯いた。
いつもは凛とした背筋がほんの少し丸くなり、前髪の隙間から覗く睫毛がかすかに震えている。
「……本当は、信用とか税金なんて、どうでもいいんです」
独り言のような小さな呟きが、俺の胸にちくりと刺さる。
「店長が一人で全ての責任を背負い込むから、あんな変なノートなんて書く羽目になるんです」
──あぁ、音羽には、隠し事はできないな。
俺はバツが悪そうに、熱くなった首筋をペタペタと触った。
「あ、あれ……見てたんだ」
「当たり前です。10年、誰の背中を見てきたと思っているんですか。……一人で勝手に、アタシを置いていく準備なんてしないでください。お店を守るのも、レシピを繋ぐのも、店長が隣にいてくれなきゃ、アタシはやりません」
ツンとした、いつも通りのジト目。
だけど、その声は微かに震えていて、潤んだ瞳の奥には「何があっても支えます」と言わんばかりの強い『覚悟』が見えた。
──そうか。
俺は大事な事を見落としていたのかもしれない。
自分が守らなければいけないと思っていた優秀な従業員は、いつの間にか、自分の命の不安さえも一緒に背負ってくれるほど、強く大きくなっていたのだ。
俺は深く息を吐き、表情を引き締めた後、少し照れくさそうに、だけど心からの笑顔を浮かべた。
「……そうだね。分かった。じゃあ、法人化しよう」
「はい」
「その代わり……音羽さん、役員になってもらえる? 名実ともに『共同経営者』として、俺と一緒に、この店の未来を背負ってほしいんだ」
「……断りませんけど。アタシが書類関係は全部握ってますし」
そう言って、音羽はふいっと顔を背けた。
だけど、その耳の裏が、みるみるうちに綺麗な桃色に染まっていくのを、俺は見逃さなかった。
「法人化って、まず法務局?」
「いきなり行く場所じゃありません」
「税務署?」
「設立したあとです」
「保健所?」
「なんで飲食店だからって保健所なんですか」




