表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
43/51

遺されたレシピ

 それは、俺が健康診断後の精密検査から戻ってきた、数日後のことだった。

 もうすぐ40代を迎える俺の心には、今までになかった小さな、だけど消えない「将来への不安」が影を落としていた。


──もし、万が一……俺に何かあったら、この店と、音羽はどうなるんだろう。


 それからの俺は、何かが取り憑いたように動き始めた。

 普段は感覚で叩き込んでいたデミグラスソースの隠し味や、ハンバーグの正確な配合を、ミリグラム単位で細かく仕込みノートに書き写していく。


「音羽さん、今日のオムライスの卵、ちょっと巻いてみてくれる? うん、上手上手。これからはディナーの軽いメニュー、少しずつ音羽さんにも任せようと思ってさ」


 俺は努めていつも通り穏やかに笑う。

 けれど、その笑顔の裏には「自分がいない未来の準備」がつきまとっている気がしていた。

 詳細すぎるレシピは、まるで『遺言』のようだ。



──翌日

「店長」

 書類を整理していた俺の前に、音羽はいつもの冷静なトーンで話しかけてきた。


「ん? どうしたの、音羽さん」


「うちの店、売上も安定していますし……そろそろ、法人化しましょう」


「え……? ほうじんか?」


 唐突な提案に、俺はマヌケな声を上げていた。

 そんな俺の目を、音羽は至近距離から真っ直ぐに見つめる。


「そうです。個人事業主のままでは、経営の幅も限られますし、社会的信用も違います。銀行や取引先への交渉力も上がります。税金だって安くなるんです」


「そっ、そういうもんかねー。でも今の所そんなに、こまってないしなぁ」


 煮え切らない俺に対して、音羽は早口でまくし立てた。


「それに、お店の借金やトラブルの責任も会社役員なら『有限責任』になります。お店の万が一が、店長個人の生活や人生を破滅させるリスクを、法的に切り離せるんです」


「ゆうげんせきにん!? なんだか面倒な方向に話が進んでないかい」


 息をきらせて喋っていた音羽は、急に子供のように俯いた。

 いつもは凛とした背筋がほんの少し丸くなり、前髪の隙間から覗く睫毛がかすかに震えている。


「……本当は、信用とか税金なんて、どうでもいいんです」


 独り言のような小さな呟きが、俺の胸にちくりと刺さる。


「店長が一人で全ての責任を背負い込むから、あんな変なノートなんて書く羽目になるんです」


──あぁ、音羽には、隠し事はできないな。

 俺はバツが悪そうに、熱くなった首筋をペタペタと触った。


「あ、あれ……見てたんだ」


「当たり前です。10年、誰の背中を見てきたと思っているんですか。……一人で勝手に、アタシを置いていく準備なんてしないでください。お店を守るのも、レシピを繋ぐのも、店長が隣にいてくれなきゃ、アタシはやりません」


 ツンとした、いつも通りのジト目。

 だけど、その声は微かに震えていて、潤んだ瞳の奥には「何があっても支えます」と言わんばかりの強い『覚悟』が見えた。


──そうか。

 俺は大事な事を見落としていたのかもしれない。

 自分が守らなければいけないと思っていた優秀な従業員は、いつの間にか、自分の命の不安さえも一緒に背負ってくれるほど、強く大きくなっていたのだ。


 俺は深く息を吐き、表情を引き締めた後、少し照れくさそうに、だけど心からの笑顔を浮かべた。


「……そうだね。分かった。じゃあ、法人化しよう」


「はい」


「その代わり……音羽さん、役員になってもらえる? 名実ともに『共同経営者』として、俺と一緒に、この店の未来を背負ってほしいんだ」


「……断りませんけど。アタシが書類関係は全部握ってますし」


 そう言って、音羽はふいっと顔を背けた。

 だけど、その耳の裏が、みるみるうちに綺麗な桃色に染まっていくのを、俺は見逃さなかった。


「法人化って、まず法務局?」

「いきなり行く場所じゃありません」

「税務署?」

「設立したあとです」

「保健所?」

「なんで飲食店だからって保健所なんですか」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ