影を払う声と小さな空元気
それは、店長が年に一度の健康診断から戻ってきた、ある日の午後のことだった。
いつもなら「ただいまー」と呑気に帰ってくるはずの店長が、その日はひどく静かに、そして「要再検査」と書かれた通知書を手に、ズン……と目に見えて落ち込んだ背中で厨房のパイプ椅子に座り込んでいた。
「店長……?」
アタシは、その通知書をそっとのぞき込み、それから店長の暗い顔を見つめた。
いつもはヘタレながらもお店の中心で笑っている人が、今はまるで迷子の子どものように、将来への不安を抱えるような顔をしていた。
アタシはトレイをそっとカウンターに置くと、努めて、真っ直ぐで驚くほど優しく店長の顔をのぞき込んだ。
「何をそんなに絶望しているんですか。まだ『再検査』でしょう? 10年間、毎日アタシと同じまかない食べてきたんですから、そんなに簡単に壊れるわけありません。ほら、しゃきっと調味料のチェックでもしてください。」
素直とは言えないけれど、これ以上ないほど温かいはず、アタシなりの激励。
その言葉に、店長の冷たい表情が、すうっと溶けていく。
「……あはは、そうだね。音羽さんがついててくれるんだもんね。よし、明日ちゃんと精密検査行ってくるよ!」
店長はようやく笑ってくれた。
その笑顔を見ただけで、張りつめていた胸が少し軽くなる。
そして、運命の検査結果の日。
「……よかったぁぁぁ……っ!!」
病院から戻ってきた店長に結果を聞いたアタシは、冷静さを完全に忘れて、その場にへなへなと座り込んで涙目を浮かべてしまった。
医師からの診断は『ひとまず大きな異常はなし、経過観察』。
すぐにどうこうという最悪の事態は回避されたのだ。
「でしょ? 言ったじゃないですか。アタシの管理に間違いはないんです」
もう、嬉しくて嬉しくて、涙がとめどなくあふれてくる。
「うん、本当に心配かけてごめんね!」
店長も一緒に手を取り合わんばかりに大喜びしていた。
「さ、ディナーの仕込み始めちゃおうか! 俺はまだまだ元気だからね!」
ひとしきり喜び合ったあと、店長はフライパンを大きく振って、いつも以上に明るく、大きな声を出す。
──だが。
ふとした瞬間、店長がそっとみぞおちの辺りをさすり、小さく眉をひそめたのをアタシは見逃さなかった。
厨房でコンロの炎に照らされる店長の横顔は、アタシを安心させようと無理に笑っている……そんな気がしてならなかった。
今回は経過観察で済んだ。
でも、店長ももうすぐ40歳を迎えるんだ。
人間いつ何があるかなんて分からない。
もし次、本当に何かあったら──そんな事を考えているんじゃなかろうか。
「……」
アタシは、カウンターの陰からその背中をじーっと見つめた。
伊達に10年一緒にいるわけじゃない。
考えていることくらい、なんとなく顔を見れば分かってしまう。
……きっと、また一人で抱え込もうとしてる。




