恋の特等席と未来の余白
その日は、特別な予約のために、夜の営業を少し早めに切り上げていた。
貸し切りとなった店内の主役は、常連の佐藤さんカップル。
数年前、この店で偶然隣り合わせたことがきっかけで付き合い始めたという。
数日前、佐藤さんから「ここでプロポーズをしたいんです」と相談された時、
店長と音羽は自分のことのように大興奮し、今日のために極秘で準備を進めてきた。
照明はいつもより少しだけ落とし、BGMには彼女が好きだと言っていたアコースティックな洋楽を静かに流す。
厨房では、店長が持てる技術のすべてを注ぎ込んだ、特製のフルコースが仕上げの段階に入っていた。
「音羽、デザートのメッセージプレート、準備できてる?」
「バッチリです。文字、絶対に間違えないように三回確認しました。……あぁ、アタシまで緊張してきました」
音羽は胸に手を当てて、ふう、と息を吐く。
ホールと厨房の間にある小さな隙間から様子を覗けば、メインディッシュを終えた二人が、いい雰囲気に包まれているのが見える。
「よし。じゃあ、いこうか」
店長のカツをいれるような声に頷き、音羽は特製のデザートプレートをうやうやしく運んだ。
お皿の縁には、チョコペンできれいに『Will you marry me?』の文字。
席に置かれた瞬間、彼女が驚いて小さく悲鳴を上げる。
すかさず佐藤さんがポケットから小さなケースを取り出し、パカッと開けて、真っ直ぐに彼女の目を見た。
──そこからの数分間、店長と音羽は厨房の影に隠れ、息を殺して見守る。
実際、緊張のあまりお互いの裾をぎゅっと掴み合っているのだが、店長も音羽も気付いていない。
「……はい、よろしくお願いします!」
彼女の涙混じりの声が響いた瞬間、
音羽は「よかった……!」と小さく跳び上がって喜び、
店長もホッとしたように顔を綻ばせた。
パチパチパチ
二人で拍手をしながら席へ近づき、「おめでとうございます!」と心からの祝福を贈る。
店内は、これ以上ないほどの幸福感に満たされていた。
それから、幸せの余韻に浸りながらお酒とデザートを楽しんだ二人が、名残惜しそうに席を立つ。
「本当にありがとうございました、店長、音羽さん。最高の思い出になりました。この店が俺たちの始まりで、本当によかったです」
「うう、佐藤さん、本当におめでとうございます。末永くお幸せに……っ」
音羽は自分のことのようにハンカチで涙を拭っている。
店長も優しく微笑みながら「またいつでも、記念日に来てくださいね」と二人を送り出そうとした。
と、上着を着終えた佐藤さんが、ふと思い出したように悪戯っぽい笑みを浮かべて、レジカウンターに並ぶ二人を見た。
「あ、そうだ。俺たちの次は──」
佐藤さんは、店長と音羽を交互に指差して、ウィンクしてみせた。
「次は、店長たちの番ですね。楽しみにしてますよ」
「え、」
「は、」
二人が言葉を失った隙に、佐藤さんカップルは「ごちそうさまでした!」と仲良く手を繋ぎ、カランカランと幸せな音を立てて夜の街へと帰っていった。
ドアが閉まり、静寂が戻った店内。
「……。」
「……。」
二人は、完全にフリーズしていた。
さっきまで他人のプロポーズに大感動していた温かい空気はどこへやら。
今度は自分たちに向けられた直球の言葉に、心臓が爆発しそうなほどの緊張感が走る。
お互い、完全に意識してしまって、顔を見ることすらできない。
10年も一緒にいて、お互いが誰より大切な存在であることは分かっている。
けれど、その先にある「未来」の形を、こんなにもはっきりと突きつけられたのは初めてだった。
静まり返った店内で、音羽が真っ赤になった耳を隠すように俯き、消え入りそうな声で呟く。
「……片付け、しましょう」
「あ、うん。そうだね……」
店長もまた、赤くなった首筋をペタペタと触りながら、お皿を片付け始める。
会話はそこで途切れてしまう。
けれど、お皿を洗う店長も、それを見つめる音羽の胸も、
いつもとは違う、確かな未来の予感にトクンと小さく高鳴っていた。




