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はじまりの白いお守り

 店長が直してくれた私のマグカップ。

 それは、10年前、アタシがこの店と歩んできた思い出の一部だった。


 アタシが、この店の扉を叩いた理由は、至ってシンプルだった。

 たまたま入ったこの店で食べたオムライスが、びっくりするほど美味しかったから。

 こんな料理を出す店で働いてみたい、そう思った直感に嘘はなかった。


──けれど、現実は甘くなかった。


「あ、すみません……っ!」


 ガシャーン、と店内に派手な音が響く。

 アタシが落としたお皿が、床の上で無残に砕け散っていた。

 この1週間で3回目だ。

 さらにその日のランチタイムには、常連の田中さんから「ハンバーグ」の注文を受けたはずなのに、緊張のあまり頭が真っ白になり、厨房へ「オムライス」と通してしまう大失態まで演じていた。


「いやぁ、俺はオムライスも大好きだから全然いいんだよ」


 田中さんは優しく笑ってくれたけれど、それが余計に情けなかった。

 料理が美味しいからという憧れだけで飛び込んだのに、自分は足手まといでしかない。



──閉店後

 夜の営業が終わり、静まり返った店内。

 アタシはカウンターの隅で、今にも涙がこぼれ落ちそうなのを必死に堪えながら、膝の上で拳をぎゅっと握りしめていた。


「……すみません、店長。アタシ、向いてないのかもしれません。お皿は割るし、オーダーは間違えるし……今日だって……」


 声を震わせるアタシの前に、トン、と温かい湯気を立てる白いマグカップが置かれた。


「はい、お疲れ様。とりあえず、これ飲んで落ち着いて」


 店長はいつも通り、どこかのんびりした笑顔を向けてくれた。


「……なんですか、これ」


「ただのコンソメスープ。ほら、冷めないうちに」


 促されるまま、アタシはスープをひとくち啜った。

 じっくり時間をかけて煮込まれたスープは、驚くほど澄んでいて、五臓六腑に染み渡るように優しくて温かい。

 張り詰めていた心のトゲが、一瞬で溶かされていくのが分かった。


「美味しい、です……」


「でしょ? これね、昨日からずーっと火加減を見て、何度もアクをすくって、失敗を繰り返しながらやっとこの味になるんだ」


 店長は厨房のフチに腰掛け、優しくアタシを見つめた。


「お店も同じだよ。最初から完璧な人なんていないんだから」


 そして、少しいたずらな笑顔を浮かべる。


「それに、音羽さんが向いてないなら、俺も向いてないね」


「えっ?」


「開店した最初の1週間は、俺よりお客さんの方が焦ってたもん」


 そう言って肩をすくめ、照れくさそうに笑う。


「失敗の数なら、たぶん音羽さんより俺の方が勝ってるよ」


 店長は穏やかな目でアタシを見つめた。


「お皿なんていくら割ってもいいよ。オーダーを間違えたら、俺が2倍速で作り直すからさ」


 そして、店長ははにかむように笑った。


「それに、俺が音羽さんにここにいてほしいと思ったのは、仕事ができるからじゃないよ。この店を、誰よりも『美味しい』って言ってくれるから」


「店長……」


「……だから、焦らなくていいんだよ」


 その言葉だけで、「ここにいていいんだ」と胸の奥から思えた。

 アタシが再び涙を溢れさせると、店長はちょっと困ったように頭を掻きながら、だけど絶対に譲らない確かな熱を込めて、最後にこう締めくくった。


「美味いって言ってくれる従業員を笑顔にできないなら、店なんかやめちゃうよ」


「──ッ、やめないでください!」


 アタシは叫んだ。

 こんなに美味しい料理を作る人が、自分のせいで店を閉めるなんて絶対に嫌だ。

 この人を、この店を、アタシがずっと支えられるようになりたい。


「アタシ頑張りますから。お皿も割らないし、オーダーも間違えませんから……っ」


「あはは、うん。期待してるよ。でも気負いすぎないでね」


 店長は嬉しそうに目を細め、アタシの持っているマグカップを指さした。


「あ、それ、まかない用に使っていいよ」


「いいんですか」


「疲れた日は温かいもの飲むと、ちょっと元気出るからさ。……ね?」


「……はい!」


 これが、店長との10年間の第一歩。

 あの日の白いマグカップ。

 どんな失敗をしても「また明日、頑張ればいい」と思い出させてくれる、アタシだけの白いお守りになっていたんだ。


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