マグカップの10年
それは、どこにでもある普通の白いマグカップだった。
音羽はずっとそのマグカップを使い続けてきた。
飲み口の縁に小さな欠けができてしまったときも、店長が「新しいの買おうか?」と気遣うのを「まだ使えますから」とジト目で遮り、頑なに手放そうとはしなかった。
こうして、音羽がそのマグカップを持ってカウンターで一息ついている姿は、この店の「毎日の当たり前」になっていた。
──けれど、形あるものは、いつかその瞬間を迎える。
ある日の閉店後、いつものように洗い物をしていた音羽の手から、濡れたマグカップがぽろっと滑り落ちた。
シンクの縁に当たり、硬い音を立てて、大きく二つに割れてしまう。
「……っ」
音羽の動きが、完全に止まった。
破片を見つめる彼女の肩が、見たこともないほど小さく震えている。
「……ごめんなさい」
消え入りそうな声だった。
いつもはツンとすましている音羽が、がっくり項垂れていた。
店長は一瞬、目を見開いて完全に固まった。
けれど、すぐに我に返ると、慌てて音羽のそばへ駆け寄った。
「物はいつか壊れるよ。それより、ケガしなかった!? 破片、手で触っちゃダメだよ」
店長はまず、彼女を椅子に座らせ、自分が丁寧に破片を拾い集める。
「それ、働き始めた頃に店長が『使っていいよ』って渡してくれたマグカップなんです」
消え入るような声の音羽に対して、店長は目を細める。
「ああ……そんなこともあったね。」
破片を箱に収めた後、店長はカウンターの奥へと視線を向け、少し寂しそうに目元を下げて笑った。
「……そっか。10年使ってたんだよなぁ」
ふたりの歴史そのものだった白いマグカップ。
それが失われた寂しさは、静かに店内の空気に溶けていった。
数日後の、お店の定休日。
音羽は、忘れ物を取りに少しだけ店に立ち寄った。
鍵を開けて中に入ると、厨房で店長が真剣な顔をしている。
手元には、あの白いマグカップの破片と、食器用の接着剤。
店長は不器用な手つきで、割れた断面を少しずつ、信じられないほど丁寧につなぎ合わせようとしていた。
「……店長? 何してるんですか」
声をかけると、店長はビクッと肩を跳ね上げ、あわあわと頭を掻いた。
「あ、音羽さん。いや、その、ちょっとね……」
「……もう新しいの買えばいいですよ。アタシが割っちゃったんだから、次は自分で買ってきます」
音羽の声色は、ぶっきらぼうだった。
けれど、店長は接着剤のついた手をタオルで拭きながら、いつものヘタレ顔で、だけどどこまでも優しく微笑んだ。
「いや、まだ使えるから。……ほら、ちゃんとくっついたよ」
店長が差し出したマグカップには、真っ直ぐに一本の継ぎ目が走っていた。
決して元通りではない。
けれど、店長が時間をかけて直してくれたその線は、どこか温かみを持っていた。
そして、数日経ったある日の閉店後。
換気扇の音が響く店内で、音羽は淹れたてのコーヒーを、その直されたマグカップに注いだ。
マグカップを包む指先に、継ぎ目がほんの少しだけ触れる。
恐る恐る持ち上げ、口をつけた。
厨房の奥で、お皿を拭きながら「大丈夫かな……」とチラチラこちらを気にしているヘタレな店長。
音羽は両手でしっかりとマグカップの温もりを感じながら、ぽつりと呟いた。
「……ちゃんと使えますね」
「そっか、よかった!」
安心したように満面の笑みを浮かべる店長を見て、音羽は真っ赤になった耳を隠すように、また深くコーヒーをすする。
「……次の10年も、これ使いますからね。覚悟してください、店長」
「10年と言わず、ずっと大切にしないとな」
「な、何言っ……」
言い返そうとした声が、小さく裏返った。
「……それ、反則です……」
「えぇっ、どうしたの?」
店長が何気なく手渡した一つの白いマグカップ。
継ぎ目のあるその器から、今日も静かに湯気が立ちのぼる。
変わったものもある。
変わらないものもある。
その温もりは、これまでも、そしてこれからも、ふたりの閉店後にそっと寄り添い続ける。




