夜景と三つ星の解剖学
その夜、二人がいたのは、ビルの最上階にある超高級フレンチレストランの窓際席だった。
ガラスの向こうには、宝石を散りばめたような街の夜景がどこまでも広がっている。
音羽は、いつもとは違う華やかな赤いドレスに身を包み、慣れないヒールに緊張しながら、目の前の男を盗み見ていた。
仕立てのいいチャコールグレーのスーツを着こなした「大人の男」──店長だった。
「お、音羽さん、そのドレス……すごく綺麗だね。びっくりしちゃった」
「店長こそ、そのスーツ……変じゃ、ないです。意外と、似合ってます」
お互い、普段とのギャップに完全に気圧されていた。
お互いの視線が合うたびに、付き合いたての高校生のような甘酸っぱい緊張感が走り、ワイングラスを持つ手がわずかに震える。
間違いなくロマンチックな、大人のデートの空気が流れていた。
──そう、「それ」が運ばれてくるまでは。
「お待たせいたしました。前菜の、鴨のテリーヌ・トリュフ香る特製バルサミコソースでございます」
うやうやしく皿が置かれた瞬間、二人の目が、同時にプロのそれに切り替わった。
「……いただきます」
音羽がフォークでひとくち口に運ぶ。
なめらかな舌触りと絶妙な塩加減を感じた瞬間、さっきまでの恋する乙女の顔はどこへやら、一瞬で「優秀な従業員」のジト目が復活した。
「店長。これ、バルサミコを煮詰める段階で、隠し味にポートワイン使ってますね」
「うん、間違いないね。それと、このテリーヌのミンチ、一度スパイスに漬け込んで寝かせてある。……なるほど、この温度帯で出すから、肉の脂が甘く感じるんだ。美味いな……!」
店長もまた、スーツの袖を少したくし上げ、ソースの粘度をフォークの先でじっと確認している。
「店長、感心してる場合じゃないです。メモ、メモを」
「あ、うん、携帯に打っておく! えーっと、鴨の火入れは……」
ここから、ロマンチックなディナーは、超ガチな「他店研究・学習会」へと完全変貌を遂げた。
「音羽さん、さっきのスタッフの皿の置き方、見た? お客様の会話の邪魔にならないように、絶妙に気配を消して左側から入ってきたよね」
「見ました。うちの店だと、田中さんが喋ってるときにアタシたちガンガン割り込んでますからね。あのタイミングは勉強になります。……あ、店長、次の魚料理、この白ワインソースのベース、魚の出汁の取り方がうちより上品です」
「本当だ……! あえてセロリの量を減らして、鯛の骨の旨味を前面に出してるんだ。これ、うちの限定メニューに 応用できるかもしれない!」
ワインを飲んでは「この渋みなら、うちのハンバーグのデミグラスに合う」、デザートが来れば「この飴細工の温度管理はどうなっているんだ」と、完全に二人だけの世界で専門用語が飛び交う。
周囲のカップルたちが甘い囁きを交わす中、スーツとドレス姿の二人のテーブルだけは、さながら「洋食店の戦略会議」の様相を呈していた。
帰り道、車中にて……
たくさん食べて、たくさんメモを取り、すっかり夜も更けた頃。
店長の運転する車でいつもの街へと戻る途中、音羽は助手席の背もたれに深く寄りかかり、ふぅ、と大きなため息をついた。
「……疲れましたけど、すごく勉強になりましたね」
「本当にね。やっぱり一流の店は、料理も接客も隙がないや。明日からの仕込み、色々と試したいことができちゃったよ」
ハンドルを握る店長は、少年のように目を輝かせている。
そんな彼の横顔を眺めながら、音羽は自分の着ているドレスの裾を少しつまみ、ふっと可笑しそうに笑った。
「アタシたち、せっかくあんなオシャレして、夜景の見える席にいたのに。結局、『店の話』しかしてませんでしたね」
せっかくのデートらしかったシチュエーションを、自分たちで台無しにしてしまった。
けれど、店長は赤信号で車を止めると、助手席の音羽の方を向いて、いつもの優しいヘタレ顔で微笑んだ。
「いいんだよ。だって、俺たちの真ん中には、いつもあのお店があるんだから。いや、でもさ。音羽さんと一緒に食べると、普通に勉強になるし楽しいんだよね」
「……それ、デートって言ってるのと同じですよ」
どんなにオシャレな場所に飛び出しても、料理を一口食べれば、いつもの「二人」に還ってしまう。
二人の研究会は、明日もいつもの洋食店のキッチンで、美味しい匂いとともに続いていく。




