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覚悟の夜と十五秒の返事

 その噂を聞いたのは、数日前のことだった。

 都内の一流ホテルが新しくオープンするメインダイニングのシェフとして、店長を破格の条件でスカウトしたがっているらしい、と。


 店長はその話を一度も口にしない。

(店長……悩み過ぎて、相談することも思いつかないんだ……)


 音羽の胸はずっと鉛を呑んだように重かった。


 店長の料理の腕前なら、当然の評価だ。

 この小さな街の洋食店に燻っているような人じゃない。

 もっと広い世界で、たくさんの人にあの料理を届けるべきだ。

 だけど、店長がいなくなったら──この店は、アタシは、どうなるんだろう。


 何日も、何日も、夜も眠れずに悩み抜いた。

 泣きそうになるのを何度も堪えて、音羽はついに、ひとつの答えを出した。


(アタシが引き留めちゃダメだ。店長の未来のために、身を引こう)


──そして、夜の営業が終わった後の静かな店内。

 いつも通りにまかないの準備をしようとする店長の背中を見つめ、音羽はギュッとエプロンの裾を握りしめた。

 心臓が痛いほど脈打つ。

 声を震わせないように、覚悟を決めて口を開いた。


「……店長。ちょっと、いいですか」


「ん? どうしたの、改まって」


 振り返った店長は、いつも通りの気の抜けたヘタレ顔だった。

 その顔を見ているだけで胸が締め付けられる。

 音羽は一度、深く息を吸い込んだ。


「あの……一流ホテルからの、スカウトの話なんですが」


 ここから「アタシのことは気にしないで、行ってください」と、涙を堪えて告げるのだ。


 けれど。


「ああ、アレね。もう断ったよ」


「……え?」


 店長はなんでもないことのように、あっさりと、本当に「明日の仕込み」の話でもするかのようなトーンで言った。

 あまりの軽さに、音羽の思考が完全にストップする。


「……え? 断っ……え? いつ、ですか?」


「ん? 話が来た時。電話でそのまま」


「その、まま……っ!?」


 音羽の頭の中で、何かが音を立てて崩れ去った。


「な、なんでですか!? 一流ホテルのメインシェフですよ!? お給料だって、すごいよかったんでしょ!」


「ああ、俺はああいうホテルで何百人に料理を出すより、この店で『おいしい』って言ってもらえる方が好きなんだよ」


 店長は首の後ろを掻きながら、フライパンを火にかけた。


「それに音羽、毎日『お腹空いたー』って言うじゃん」


「うっ、」


 また、不意打ちだった。

 店長にとっては、当たり前のことを、いつもの調子で口にしただけ。


「音羽? どうかした?」


 心配そうに覗き込んでくる店長。

 音羽はわなわなと震え、真っ赤になった顔を両手で覆うと、限界まで溜め込んでいた感情を爆発させた。


「……バカ店長ーーーーーッ!!」


「ひゃいっ!?」


「アタシがどれだけ悩んだと思ってるんですか! もう店長に会えなくなるかもって、アタシ、本気で、本気で身を引く覚悟までして、昨日なんて、一睡もできなかったんですよ!」


「え、えええええっ!? ごめん、そんなに悩んでくれてたの!?」


「当たり前です! ショックです、もう大ショックです! あぁもぉ、この決意の数日間を返してください!!」


 涙目で怒る音羽に、店長はあわあわと両手を振って平謝りする。


「……じゃ、じゃあさ、今日のまかない、ハンバーグにするから。それで、その……許して?」


「……チーズ、乗せてください」


「うん、特盛で乗せる」


「……デザートも、つけてください」


「うん、とびきりのヤツ作るから」


 音羽はプイッと拗ねたように背を向けたけれど、その胸の奥は、安堵と、愛おしさと、そしてやっぱり「世界一好き」という気持ちで、はち切れそうなくらいに満たされていた。

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