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ロックオンと自爆

 その日のディナー営業が始まる15分前。

 俺は厨房で、夜用のデミグラスソースの味を入念にチェックしていた。


「うん、コクもバッチリだね」


 満足してスプーンを置いた、その時だった。

 いつの間にかすぐ隣に音羽が立っており、俺の顔をのぞき込むように、至近距離でじーっと見つめていた。


「……」


「うおっ、びっくりした。どうしたの、音羽さん?」


 最初は、何か業務連絡でもあるのかと大して気にしなかった。

 だが、音羽は何も言わず、さらに一歩、距離を詰めてくる。

 いつもなら少し冷ややかなはずの彼女のジト目が、今はやけに真っ直ぐで、強い光を帯びて俺を完全にロックオンしている。


「……音羽さん?」


 さすがに俺も、ただごとではないと背筋を伸ばした。

 数センチ。

 お互いの吐息がかかりそうなほどの距離まで、音羽の綺麗な顔が近づいてくる。


「え、何……? 俺の顔に、なんかついてる……!?」


 あわてて、熱くなった自分の頬や顎をペタペタと触り、その場をごまかそうとした。

 それでも音羽は視線を外さない。

 まつ毛の長さまでハッキリと見える距離で、ただひたすらに俺の目を見つめ続けている。


「……っ」


 静まり返った厨房に、換気扇の音だけが響く。

 10秒。

 いや、俺にとっては1時間にも感じられる沈黙。

 言葉すら発させてもらえない圧倒的なゼロ距離。

 音羽の長いまつ毛が震える。

 シャンプーの香りがふわっとする。


 ドクン、と大きな鼓動が、店中に響いた気がした。


「む、無理無理無理! ごめん、ちょっと裏の倉庫から予備のおしぼり取ってくる!」


 ついに耐えきれなくなった俺は、情けない声を上げながら、文字通り脱兎の如く厨房から退散するしかなかった。



◇◆◇◆◇◆◇◇



「……ふぅ」


 パタパタと足音が消えた厨房で、アタシは大きく息を吐き出した。

 そして、誰もいないのを確認すると、胸の前で小さく拳を握りしめる。


──よしっ


 心の中で、完璧なガッツポーズだった。

 ここのところ、いろいろと理由をつけてはアタシの気を引こうとしていた店長。

 お望み通り、限界まで気を引いて動揺させてやった。

 耳まで真っ赤にして逃げていくあのヘタレな姿は、完全にアタシの作戦勝ちだ。


 大満足で、ふふんと鼻歌を歌おうとした──その時。


──っていうか、アタシ、何やってるの……っ!?


 強烈な羞恥心が、時間差で急に襲いかかってきた。


 いくらお仕置きのつもりだったとはいえ、自分から男の人の、しかも店長の顔にあんなに近づくなんて。

 本当は店長がすぐ逃げると思っていたから、予想以上に近づいてしまった。

 脳裏に、さっきの店長の驚いた顔、至近距離で合った優しそうな茶色い瞳、そして真っ赤になって動揺していた姿がフラッシュバックする。


「ああぁぁーー」


 今度は、アタシの顔がみるみるうちに沸騰していった。

 店長をからかってやった達成感よりも、自分の大胆な行動への恥ずかしさが完全に上回ってしまう。


「何が『よし』よ、アタシのバカ……っ」


 アタシは真っ赤になった顔を両手で覆い、カウンターの隅でしゃがみ込んだ。

 心臓がうるさいほどバクバクと鳴り響き、これじゃどちらが仕掛けられたのか分からない。



◇◆◇◆◇◆◇◇



「いらっしゃいませ、田中さん」


「こんばんわ、とりあえず、生ビールとハンバーグちょうだい」


「店長、ハンバーグ一つです」


「了解」


 んっ? ちょっとまてよ。

 今日の雰囲気は、ちょっとおかしい。

 店長も音羽さんも、バツグンのコンビネーションなのは変わらない、いや、いつも以上だ。

 なのに、二人とも全く目を合わせようとしない。


──何かあったな。


 だが、この前みたいに、喧嘩したって感じじゃないな。


 これは……なにか楽しそうな事があったに違いない。

 だとすると、店が始まる直前か!


 くぅっ、これは見たかった!!


 でも、まあいい。

 こういう日は、料理も空気も少しだけ甘いんだ。


 常連というものは、全部知ろうとしないくらいでちょうどいい。

 隠し味のスパイスを勝手に想像しながら飲む。

 今夜のビールは美味いぞ。

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