試作の本音
その日の午後、休憩時間の静かな店内に、厨房からトントンと小気味よい包丁の音が響いていた。
カウンターでディナー用のメニューを書いていたアタシは、その音の「リズム」だけで、厨房の主が今、ひどく上機嫌であることを見抜いていた。
……また何か、企んでますね。
ここ数日、くだらないボケを仕掛けてはアタシに軽くあしらわれ、退屈そうにしていたヘタレな男の顔が思い浮かぶ。
案の定、包丁の音が止まったかと思うと、厨房の奥から「ふふん」と鼻歌混じりの店長が姿を現した。
その両手には、美しく盛り付けられた一皿のパスタが握られている。
「ねえねえ音羽さん。これ、試作してみたんだけどさ。夏の新メニューにどう思う? ちょっと率直な意見を聞かせてほしいんだよね」
真剣なプロの目をして、いかにも「仕事の話です」というトーンで皿を差し出す店長。
だが、アタシはそのパスタを一目見た瞬間、心の中で深いため息をついた。
彩り鮮やかな夏野菜の配置、艶やかに絡んだソース、仕上げに美しく散らされたハーブ。
どこからどう見ても、試作段階の実験作なんかではない。
すでに何度も微調整を重ね、明日からでも看板メニューとして出せるレベルの「完全な完成品」だった。
「……」
アタシはジト目で、マジマジと店長の顔を見る。
店長は「え、何? 盛り付け変かな?」などとあわあわしながら、赤くなった耳の後ろをペタペタと触っている。
──この人は構ってほしいだけ、アタシにはそう見えた。
新メニューの相談という『仕事の建前』を使えば、アタシが絶対に無視せず、真剣に自分の方を向いて、自分の作ったものを食べてくれると分かっているのだ。
10年目の関係性を利用した、実にあざとくて可愛い確信犯だった。
優しいアタシは、その誘いに乗ってあげるんですけどね。
「……いただきます」
ひとくち、口に運ぶ。
トマトの酸味と大葉の爽やかな香りが広がり、文句なしに美味しい。
「どうかな……?」
上目遣いで、まるで合格発表を待つ子犬のようにそわそわしている店長。
アタシはフォークを置くと、わざとゆっくりと椅子から立ち上がり、カウンター越しに店長の顔をのぞき込んだ。
「……美味しいです。完璧すぎて、アタシの意見なんて挟む隙、どこにもありません」
「え、あ、本当? よかったー! 音羽さんがそう言ってくれるなら安心──」
「でも」
アタシはすんと澄ました顔のまま、少しだけ声をトーンダウンさせて意地悪に微笑んだ。
「退屈で、アタシに構ってほしかっただけなら、最初からそう言えばいいじゃないですか」
問い詰められた店長はほんのわずか硬直したが、頭をかいて少しだけ照れて笑った。
「いや、そういうんじゃなくて」
そして、いつになく真面目な顔をして言い放つ。
「最初に食べてもらうなら、音羽さんがいいと思って」
「……えっ」
「新しい料理ができた時ってさ……」
一呼吸おいて店長は続ける。
「……まず音羽さんが『美味しい』って言ってくれると、俺、それだけで本当に安心できるんだ。」
いつになく真面目な、だけど少し熱を帯びた茶色い瞳が、まっすぐにアタシを射抜く。
「だから……試作って言ったのは、半分言い訳」
──違った。
アタシは店長が構ってほしいだけなんだと思っていた。
でも、本当は違う。
一番最初に食べてもらう相手として、アタシを選んでくれていたんだ。
「……っ」
アタシは、顔がみるみるうちに沸騰していくのを感じて、俯くことしかできない
「あれ? 音羽さん?」
「……ご、ごめんなさい。ちょっと誤解していました。これとっても美味しいです」
「え、なんで謝るの? 俺、なんか変なこと言った?」
店長は、不思議そうな顔でアタシを見つめている。
……その視線が、さっきまでよりずっと近く感じてしまって、アタシは最後まで顔を上げられなかった。
次に店長を見たら、きっと平気な顔なんてできない。そんな予感だけが、胸に残っていた。




