構ってちゃんの誤算
※以下、店長の名誉のため、本来は永久封印される予定だった記録です。
温かい目でご覧ください。
その日の夕方、ディナー営業が始まる前の少しだけ退屈な時間。
俺は、厨房からカウンターの奥で黙々とカトラリーを磨いている音羽の姿をチラチラと盗み見ていた。
……さっきからずっと集中してて、俺の方を全然見てくれない。
10年も一緒にいれば、そんな時間があるのも当たり前だ。
だけど、今日の俺は妙に「構ってちゃん」のスイッチが入ってしまっていた。
おもむろにニヤニヤとヘタレ顔を浮かべると、仕込み用のニンジンを両手に持ち、それを自分の耳の横に当てて、おどけた調子でカウンター越しに声をかけた。
「今日のおすすめ」
俺はニンジンを両耳の横に当てたまま、大真面目な顔で一礼した。
「キャロットラビットです」
38歳、独身。
我ながら恥ずかしくなるほどくだらないボケだった。
いつもならここで、音羽が「……くだらないことしないで、早く仕込み進めてください」と、冷ややかなジト目で一蹴してくれるはずだった。
そのジト目が返ってきて、このくだらないやり取りは完成する。
けれど。
音羽はふきんを動かす手を止めると、ゆっくりと顔を上げた。
その瞳には、いつもの鋭いジト目ではなく、まるで迷子の子どもをあやすかのような、信じられないほど優しくて、柔らかい光が灯っていた。
「ふふ、大丈夫ですよ、店長」
「え、」
「今日は静かだから、退屈だったんですよね? ……分かってますよ」
「うっ、」
ポロッとニンジンが転がり落ちた。
違う。
こんな返しは予測していなかった。
いつもはツンツンしている彼女が、すべてをお見通しだという顔で優しく微笑みかけてきている。
夕暮れの光に照らされて笑う音羽を見た瞬間、俺の思考が止まった。
「お、お、お、音羽さん……!」
俺は一気に顔が沸騰していくのを感じた。
心臓がドクンドクンと爆音を立て始める。
いつもの二人の距離感が一瞬で吹き飛び、付き合う直前の男の子のような猛烈なときめきが襲う。
「あ、あの、違うんだ、これはただの、その……!」
あわあわと両手を泳がせる俺を見て、音羽の様子もおかしくなっていた。
「え、あっ、何ですか、その反応!? アタシそんな変なこと言いました?」
そう言って、音羽は耳まで真っ赤にして、「あ、ディナーの準備しなきゃ」と奥へとそそくさといってしまった。
──残された俺も、真っ赤になった首筋を手で押さえながら、その場にへなへなと崩れ落ちた。
……なんなんだ今の、反則だろ……。
もう、お互いに完全にノックダウン。
構ってほしくて仕掛けたくだらないボケだったのに、結果、二人とも大ダメージを受けてしまった。
夜の営業が始まってからも、音羽と目が合うたびに心臓だけは盛大に跳ね上がる。
それでもフライパンを振る手だけは、一度も狂わなかった。
後日談
「店長、もうキャロットラビットやらないんですか?」
「やらないよ! 一生やらない!」
「……残念です」
「えっ?」




