ゼロ距離の冷戦と完璧な呼吸
──それは、本当に些細な衝突だった。
きっかけは、週末の限定メニューに添えるソースの仕込み。
隠し味のワインを煮詰めるタイミングについて、
店長が「もう少し早いほうがいい」と言い、
音羽が「今のタイミングのほうが香りが残る」と譲らなかった。
普段ならどちらかがヘタレて譲るはずなのに、今日に限ってお互いのプロとしてのこだわりが、珍しく真っ向からぶつかってしまったのだ。
結果──その日のふたりは、朝から一言も口をきかなかった。
「……」
「……」
店内にはピリピリとした冷戦状態の空気が漂う。
音羽はいつもより激しい音を立ててお皿を並べ、店長は必要以上に真剣な顔で仕込みを続ける。
会話といえば、業務上どうしても必要な「オーダー」「はい」という最低限のやり取りだけ。
音羽の目は、いつになく鋭いジト目になっていた。
──ところが。
いざ昼のピークタイムが始まると、ふたりの「10年の歴史」がとんでもない裏切りを見せ始める。
「ハンバーグ、セットで」
音羽が伝票を差し出すと同時に、店長の手はすでにハンバーグのタネを空気抜きし始めている。
店長がソースのフライパンを傾ければ、音羽は言葉を交わすまでもなく、完璧なタイミングでお皿を差し出す。
ご飯を盛るタイミング、お味噌汁をよそう瞬間、サラダのドレッシングをかける速度。
口は一切きいていない。目すら合わせていない。
それなのに、お互いの足音や調理の音だけで次の行動を完璧に予測し合い、まるでひとつの生き物のように無駄のない、流れるような超一流の連携プレイが繰り広げられていた。
カウンター席でその様子を眺めていた田中さんが、ハンバーグを口に運びながら、しみじみと目を細めて声をかける。
「いやぁ、それにしても店長と音羽さんは、今日も本当に仲が良いねぇ。あうんの呼吸っていうの? 見てて気持ちがいいよ」
「「……うっ、」」
ふたりの動きが一瞬、同時にピキリと固まった。
「あ、いや、田中さん、アタシたちは別に……」
「そうそう、ただ仕事をしてるだけで……」
慌てて否定するものの、その声のトーンまで綺麗にハモってしまう。
「ほら、やっぱり息ぴったりだ(笑)」
田中さんは嬉しそうに笑っている。
他のお客さんたちも優しく微笑んでおり、店内の空気はピリピリするどころか、ますます温かい「おしどり夫婦」を見るような目線に包まれてしまった。
──閉店後
夜の営業も終わり、シャッターを下ろした店内。
換気扇の低い音だけが響く中、音羽は無言でグラスを拭き、店長は無言でシンクに向かっていた。
一日中、意地を張って口をきかなかった。
だけど、あの忙しいピークを、言葉もなしに完璧に支え合って乗り越えてしまった。
その事実が、ふたりの頑なだった心を少しずつ解かしていく。
先に沈黙を破ったのは、店長の方だった。
お皿を洗う手を止め、振り返らずに、ぽつりと呟く。
「……さっきのソース、音羽さんの言う通りにしてみたんだ」
「え、」
「ディナーで出してみたら、お客さん、すごく喜んでくれた。……香りが引き立ってて、美味しかったよ。俺が間違ってた。ごめん」
いつも通りの、ちょっと情けない、けれどどこまでも誠実なヘタレ声。
わざわざ自分の非を認めて頭を下げる店長の後ろ姿を見て、音羽の胸の奥が一気にきゅう、と切なくなる。
音羽はグラスを置き、店長の背中に向かって、ツンとした声のまま、けれど耳の裏を真っ赤に染めて告げた。
「……アタシの方こそ、言い方がキツかったです。店長の言う通り、少し煮詰めたほうがコクが出るのも分かってました。……ごめんなさい」
お互い、背中を向けたままでの謝罪。
けれど、次の瞬間、どちらからともなく振り返り、お互いの赤くなった顔を見て、ふっと小さく吹き出した。
「ふふ、何ですかその顔」
「いや、音羽さんこそ。……一日中口をきかないなんて、俺、心臓に悪くて死ぬかと思ったよ」
「自業自得です。……でも、田中さんたちにあんな風に言われるなんて、計算外でした」
音羽は恥ずかしさを誤魔化すように、ふいっと顔を逸らす。
口をきかなくても、心が、行動が、お互いを誰よりも求めてしまっている。
そんな自分たちの結びつきの強さを、喧嘩したことでかえって思い知らされてしまった。
「明日の仕込みは、ふたりの意見を足して、最高のソースにしようね」
「……はい」
音羽は頷くと、店長の横へ自然に立った。
二人で鍋をのぞき込み、同じタイミングで木べらに手を伸ばす。
「「あっ」」
指先が少しだけ触れて、すぐ離れる。
「……」
「……」
さっきまでの気まずさはもうなかった。
ソースは、一人では作れない味になっていた。




