動揺のレシピ
それは、いつもの穏やかなランチタイムの終わりだった。
「いやぁ、そういえばさ。昨日、駅前で音羽さんが男の人と親しそうに歩いてるの見かけたぞ」
カウンター席の田中さんが、お茶を飲みながら何気なく放ったその一言。
「へぇ……そうなんだ」
厨房の奥で、店長はいつも通りののんきな声で答えた。
顔だって、別に引きつっていない。
まさに平静そのもの──に見えた。
──ガシャーーーン!!
次の瞬間、派手な金属音が店内に響き渡る。
店長の手から滑り落ちた包丁が、調理台の上で虚しく跳ねていた。
「て、店長!? 危ないじゃないですか!」
「あ、ハハ、ごめんごめん、ちょっと手が滑っちゃって」
慌てて包丁を拾い上げる店長だったが、その後も散々だった。
スープのに塩を足した後、数秒の固まったかと思えば、さっき入れたはずの塩の缶に再び手を伸ばして、また塩を投入する。
「ちょっと店長! 今、塩二回入れましたよね!?」
「えっ? あ、いや、入れてないよ?」
「入れました! 完全に目が泳いでます!」
その後も、注文の伝票をじっと見つめたり、お皿を並べる手がどこかおぼつかなかったり。
カウンターの田中さんは、そんな様子を見て、ニヤニヤと静かに見守っている。
──閉店後
ようやく夜の営業が終わり、片付けの時間。
音羽は腕を組んで、カウンターの前に立つ店長をジト目でじっと見つめた。
「今日の店長、絶対に変ですよ? あんなミスなんて滅多にしないのに」
「いやぁ、ちょっと寝不足っていうか、疲れが溜まってたのかなぁ、ハハ……」
店長は後頭部を掻きながら、必死に視線を逸らす。
そんな姿をしばらく観察していた音羽だったが、ふっと息を吐き、いたずらっぽく口元を緩めた。
「──兄ですよ」
「……え?」
店長の動きが、ピタッと止まる。
「昨日アタシと一緒に歩いてたの、出張に来ていた兄です」
「……」
「兄、です」
「そ、そうなんだ……! あぁ、なんだ、お兄さんかぁ! あー、びっくりしたっていうか、そういえば前にそんな話もしてたよね! うん、納得納得!」
あまりにも露骨な反応に、音羽は一歩詰め寄り、上目遣いで意地悪な笑みを浮かべる。
「……何だと思ったんです?」
「いや、別に」
「別に、じゃありません。包丁落として、塩二回入れて、ぼーっとして。……アタシに彼氏でもできたと思ったんですか?」
店長はというと耳まで真っ赤にしている。
「だ、誰もそこまでは言ってないだろ!?」
「ふふ、店長、わかりやすすぎます。……ま、変な誤解が解けてよかったですけど」
音羽は満足げにそう言い、お皿を洗い始めた。
残された店長は顔を覆って項垂れている。
奥では音羽の鼻歌だけが、いつまでも機嫌よく響いていた。




