10年目の飛び火
ディナータイム
店内の空気を一瞬で変えたのは、いつも奥のテーブル席で仲良くデートをしていた若い大学生カップルだった。
「もういい、別れる! 大体あんたはいつもそうなのよ!」
「なんだよそれ! じゃあ俺たちの3年間は何だったんだよ!」
突然始まった激しい大喧嘩。
周囲の客もハラハラと見守る中、声はどんどん大きくなっていく。
見かねた店長と音羽は、慌ててふたりのテーブルへと駆け寄った。
「ちょっとちょっと、ふたりとも落ち着いて! 他のお客様もいるからさ」
「そうですよ、せっかくの美味しいお料理が冷めちゃいます。ね?」
必死になだめる店長と音羽だったが、頭に血が上った彼女のほうは、勢い余ってふたりをバッと指差した。
「そんなこと言うなら、店長さんたちはどうなんですか!? 長く一緒にいるんでしょう!? 何年目なんですか!?」
「えっ、」
「むっ、」
まさかの飛び火。
その瞬間、店内の空気がガラリと変わった。
カウンターの田中さんをはじめ、周囲の常連客たちが一斉に目を輝かせ、(待ってました!)とばかりに全神経をふたりのリアクションに集中させる。
「いや、あの、僕たちはそういうのじゃ……ねえ? 音羽さん?」
案の定、店長はあわあわと両手を泳がせていつも以上のヘタレっぷりを発揮する。
そんな情けない店長をちらりとジト目で一瞥した音羽は、どこか吹っ切れたように、若いカップルに向き直った。
「10年です!」
当然だが、そんな音羽の『働き初めて』などという脳内補完が、修羅場を迎えている若いふたりに伝わるはずもなかった。
「じゅ、10年……!?」
それまで険しい顔をしていた彼氏が、ガタッと椅子を鳴らして驚愕する。
「俺たちの3年なんて、足元にも及ばないじゃないか……」
「付き合い始めて10年も経つのに、こんなに穏やかに並んでお店やってるなんて……。私たち、何てちっぽけなことで揉めてたんだろう……」
「えっ、いや、働き出してから……」
音羽が訂正しようとするのも虚しい。
「負けた……」
若いカップルは謎の納得をして、すっかり毒気を抜かれてしまった。
「私たちも店長さんたちを見習って、頭冷やします」
なぜかお互いに手を繋ぎ直して、すっかり仲直りして帰っていったのだった。
──閉店後
夜の営業が終わり、シャッターの下りた静かな店内。
音羽はいつもより丁寧にカウンターを拭いていた。
店長も厨房の奥で黙々とお皿を洗っている。
昼間の喧嘩の賑やかさが嘘のように、ふたりの間には妙に重たい沈黙が流れていた。
コツン、とお皿を重ねる音が響いた後。
どちらからともなく、ぽつりと呟きが漏れた。
「10年かあ……」
言った瞬間、ふたりの動きが同時にピタッと止まる。
仕事の付き合いとして始まった、10年という歳月。
お互いが誰よりも近くにいて、誰よりも理解し合っている。
その事実に嘘はない。
けれど、昼間のカップルのせいで「10年」という言葉の響きが、どうしても頭から離れなくなっていた。
「……。」
「……。」
気まずい。
あまりにも気まずすぎる。
音羽は真っ赤になっていく耳の裏を隠すように、猛烈な勢いでふきんを動かし始めた。
店長もまた、赤くなった首筋をペタペタと触りながら、意味もなくキッチンタイマーをいじっている。
3年で大騒ぎする若者たちが眩しく思えるほどに、自分たちの重ねてきた時間はあまりにも長くて、そして──言葉にできないほど、特別になっていた。
「……あの、音羽さん」
「なんですか」
「明日の仕込み、いつもより多めにしとくね」
「……そうしてください」
視線すら合わせられないまま交わされた、いつもの業務連絡。
けれど、ふたりの胸の奥に灯った焦れったい熱は、白い夜の静寂の中で、いつまでも静かに弾け続けていた。




