嵐から店を守る
窓の外では、世界を遮断するように激しい嵐が吹き荒れていた。
交通機関は完全にストップし、外の道路には人影ひとつない。
嵐の中で、外に散らばったゴミを片付けるのに、店長も音羽もずぶ濡れになってしまった。
当然、お客さんは来なかったのだが。
「……というわけで、大人しく諦めて上に泊まりな。音羽さん」
店長が手早くシャワーを浴びた後、音羽に自分のスウェットを臨時のパジャマ代わりに渡した。
「洗濯物は、乾燥機使えば1晩で乾くから」
浴室の狭い空間に、熱い湯気と、店長がいつも使っているシトラス系の安っぽい石鹸の匂いが満ちていく。
シャワーのノズルをひねり、お湯を頭から被りながら、音羽は目を閉じた。
胸の奥が、痛いくらいにバクバクと暴れている。
期待しているのか、それとも不安なのか……
自分でももう、境界線が分からなかった。
(もし、このまま──)
10年間、ずっと隣にいた人。
自分の世界の真ん中にいる人。
もし今日、この嵐を言い訳にして、あの人がドアを開けて入ってきたら。
自分を「ただの従業員」ではなく「一人の女」として抱きしめてくれたら。
それは、ずっと夢に見ていたかもしれない「期待」の瞬間だ。
でも、同時に、恐ろしいほどの「不安」が首をもたげる。
(もしそうなったら、明日から、アタシたちどうなるの?)
「恋人」になってしまったら。
もし上手くいかなくて、この関係が壊れてしまったら。
10年間、二人で必死に守ってきたあの「居心地のいいお店の日常」には、二度と戻れなくなるかもしれない。
あの人の隣という、世界で一番の特別な居場所を、失ってしまうかもしれない。
「……バカみたい、アタシ」
湯気の中で、音羽は小さく自嘲した。
期待と不安が、50対50で混ざり合って、身体が内側から熱くなっていく。
ゆっくりと時間をかけて、これ以上ないほど念入りに身体を洗い、彼から借りたぶかぶかのスウェットに袖を通した。
一方、部屋に残された店長は、ベッドの上に座ったまま完全にフリーズしていた。
脱衣所の扉の向こうから、ザーッというシャワーの音が、嫌でも鼓膜に飛び込んでくる。
(……アカン、これは無理だ)
頭を抱える。
10年間、鉄壁だと思っていた自分の理性が、音を立ててみしみしと割れていくのが分かった。
湯気と共に、部屋に漏れ聞こえる水の音。
今、あの中で、自分の服を着るために音羽が髪を濡らしている。
「……男の限界を試すなよ、本当に……」
これ以上ここにいたら、絶対に間違いを犯す。
彼女が浴室から出てきた瞬間、その濡れた髪を見てしまったら、10年の建前をすべて投げ捨てて抱きすくめてしまう自信があった。
それは、彼女に対してあまりにも不誠実だ。
こんな天災のドサクサに紛れて手を出すような男にだけは、なりたくなかった。
店長は立ち上がり、机の上にあったメモ帳を引きちぎると、震える手でボールペンを走らせた。
『雨漏りとか、お店の様子心配だから、下で寝るわ。
鍵ちゃんと閉めて、ベッド使ってゆっくり寝なよ。お疲れ』
ぶっきらぼうで、下手くそな文字。
でも、それが今の自分に出せる、精一杯の誠実さだった。
メモを机の上にパッと置くと、店長は自分のジャンパーをひったくるように掴み、後ろ髪を引かれる思いで、静かに部屋のドアを閉めた。
階段を駆け降りる足音が、激しい嵐の音にかき消されていく。
浴室のドアが開いたとき
シャワーを終え、髪をタオルで拭きながら音羽が部屋に出てきたとき、そこにはもう、店長の姿はなかった。
静まり返った部屋。
机の上に、ぽつんと残された1枚のメモ。
それを手に取り、店長の乱暴な文字を読んだ瞬間──。
音羽は、胸が締め付けられるような、切ない「安心」と、そしてほんの少しの「寂しさ」を覚える。
(やっぱり、あの人は、どこまでも店長なんだな……)
一方、1階の店舗。
店長は客席のベンチシートに横になり、自分の予備のジャンパーを毛布代わりに被っていた。
当然、眠れるはずがない。
(……一応、鍵は閉めとけって言ったけどさ)
2階の天井を見上げる。
いつもはただの天井なのに、今はあの上に「自分の服を着た音羽」が、髪を濡らしたままいるのだ。
男としての自制心が、10年間の歴史の中で一番激しく揺さぶられている。
ここで上に上がったら、絶対に「ただの店長」ではいられなくなる。
だからこそ、冷える店内のベンチシートにしがみつくように、店長は目を閉じた。
深夜2時。
嵐の音が少しだけ弱まった頃。
どうしても気になって、音羽は静かに階段を降りてきた。
暗い客席の中、スマートフォンの薄明かりだけを頼りに進むと、ベンチシートで身を縮めている店長の姿が見えた。
嵐の夜は冷え込んでいる。
「……店長」
音羽が小さく声をかけると、店長はすぐに目を開けた。
最初から起きていたのだ。
「……音羽? なんで降りてくんだよ、寒いだろ」
店長は起き上がり、驚いたように顔をしかめる。
暗闇の中、音羽の着ている自分のスウェット姿を見て、店長は咄嗟に視線を逸らした。
大人の男の、必死の自制心だった。
「店長こそ、何やってるんですか。風邪ひきますよ」
「いや、俺はここで寝るのが落ち着くんだよ。ほら、早く上に戻れ」
「嘘つき」
音羽の声が、少しだけ震えていた。
「アタシのこと、信用してないから上に上がってこないんですか」
その言葉に、店長は小さくため息をついた。
暗闇の中、ベンチシートに座ったまま、不安な表情の音羽を見上げる。
その目が、いつものヘタレな店長ではなく、一人の「男」の鋭い光を帯びていた。
「逆だよ、音羽」
店長の声は、驚くほど低かった。
「信用してないのは、俺自身のほう」
「……え」
「……10年も一緒にいて、俺が何とも思ってないわけないだろ。これ以上そこにいられたら、俺だって『店長』の顔をしていられる自信がない。……頼むから」
10年間、絶対に口にしなかったストレートすぎる本音が、嵐の夜のせいで漏れ出してしまった。
音羽は息を呑み、その場に立ち尽くした。
暗闇の中でも、お互いの耳が、顔が、真っ赤に染まっていくのが分かる。
数秒の、嵐の音だけが響く沈黙。
「……風邪、ひかないでくださいね」
音羽はそれだけ言うのが精一杯で、逃げるように2階へと駆け上がっていった。
バタン、と部屋のドアが閉まる音が響く。
店長はもう一度ベンチシートに深く横たわり、ジャンパーで顔を覆った。
「……あー、格好つかねぇなぁ、俺も」
翌朝、台風が去って、雲の隙間から眩しい朝日の光が店内に差し込んできたとき。
二人はいつも通り「おはようございます」「おう」と、何事もなかったかのように仕込みを始める。
けれど、二人の距離は、言葉にできないほど熱く、深く変わっていた──。




