メニューの隅の、最初の一歩
昼のピークが過ぎた頃、店内には少しだけ緩やかな空気が戻っていた。
カウンターには、常連客が一人。
ゆっくりと食後のお茶をすすりながら、手持ち無沙汰にラミネートされたメニュー表を眺めている。
「そういえばさ、店長」
その客が、ふと顔を上げた。
「この“なんとか焼き”ってやつ、ちょっと変わった名前だよね。なんでこれだけ、なんか浮いてるっていうか」
「ええっと……」
音羽がいつもの調子で軽く返そうとした、その瞬間だった。
厨房の奥から、店長が先に声を張った。
「ああ、それ。ちょっと、昔からあるやつなんですよ」
……
まもなく会計が終わり、客が扉の鈴を鳴らして帰っていくと、店内は一気に静かになった。
午後特有の、少し気怠い静けさ。
その中で、音羽はカウンターに置かれたままのメニュー表を、何気なく見つめていた。
「……店長」
ぽつりと、呟く。
「このメニュー、なんでまだ残してるんですか?」
指先で指さしたのは、少し不格好な名前の一品だった。
他の洗練された定番メニューの中に混じって、そこだけが“10年前のまま”の不器用な雰囲気を残している。
店長は、手にしていた台拭きの動きを止め、一瞬だけ天井を見上げるような顔をした。
「あー、それ?」
そして、いつものぶっきらぼうな調子で言った。
「だってこれ、音羽が最初に“やりたい”って言ってくれたやつじゃん」
音羽の手が、ぴたりと止まった。
「え」
思わず、喉の奥から声が漏れる。
店長はその動揺に気づいているのかいないのか、視線を調理台に戻したまま、淡々と続けた。
「最初にお前が作ったやつ、正直だいぶやばかったけどさ。味も全然安定してなかったし。でもまあ……せっかくあそこまで必死に考えてくれたんだから、無かったことにするのも違うかなって思って」
さらっと言う。本当に、昨日の天気を話すような、何でもないことのように。
「ちょっと俺が手直しして、今の形にしただけ。……結構気に入ってるよ、これ」
そう言われて、音羽は鮮明に当時の事を思いだし、言葉を失った。
(……覚えてるんだ。あの時の、アタシの失敗を)
自分にとっては、ただの記憶から消し去っていた黒歴史だった。
慣れない洋食店で、足手まといになりたくなくて必死だった初期の、あの頃。
思い通りにならなくて、落ち込んで、もう二度と触りたくないと思ったあの料理。
けれどこの人は、それを“残した”。
無かったことにすることもなく、メニューの隅に、大切に、消さずに置いておいてくれた。
店長はコップの水を一口飲んで、軽く笑う。
「まあ、店ってさ、そういう違う雰囲気のやつも混ざってた方が面白いじゃん」
何でもない口調。
いつもの、少し気の抜けた笑顔。
なのに、音羽は何も言い返せなかった。
胸の奥が、ぎゅうっと、痛いほどにせり上がってくる。
(この人、ずっと覚えてたんだ。アタシが忘れてたことまで、全部)
耳の裏が、じわじわと熱くなっていく。
理由は分かっているのに、認めたくなくて、言葉にできない。
「……店長」
ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほど小さく掠れていた。
「ん?」
いつも通りの、冴えない顔。
いつも通りの、カウンター越しの距離。
その“普通さ”が、今はたまらなくずるい。
「それ……別に、無理に残さなくてもよかったんですよ。お店のメニューなんだし」
「いや、別に無理じゃないし」
遮るような即答だった。
そして、少しだけ気まずそうに頭を掻いたあと、店長はボソッと付け足した。
「……俺が、気に入ってるんだからいいだろ」
その一言で、会話は終わった。
音羽はもう、それ以上何も言えなくなった。
ただ、顔を見られたくなくて、視線を激しく逸らす。
逃げた視線の先で、不格好なメニューの名前が視界に映る。
この店には、完成された料理だけじゃない。
自分が踏み出した、あの、かっこ悪くてうまくいかなかった“最初の一歩”まで、この人がちゃんと守り続けてくれている。
台ふきんを握り直す音羽の手が、ほんの少しだけ、震えていた。




