甘い魔法
昼の営業が終わり、14時を少し過ぎた頃。
いつもなら手際よく夜の仕込みの段取りを決めているはずの店長が、休憩スペースの古びた椅子に完全に深く腰掛け、液体のように溶けていた。
スマートフォンを眺めるでもなく、ただぼんやりと天井を仰いでいる。
「……あー、ダメだ。今日どうしてもやる気が出ない」
「珍しいですね。いつもは包丁のカタログとか見て目が輝いてるのに」
洗い物を終えた音羽が、エプロンを軽く整えながらカウンター越しに店長を見下ろす。
その目は、明らかに「めんどくさいモードに入ったな、この人」と察している目だった。
「なんかさぁ、こう……心にカレーのルーが足りないっていうか、スパイスが効いてこないんだよね。長いことやってると、たまにはこういう日もあるよ。ね、音羽さん、今日の夜の営業、臨時休業にしない?」
「却下で」
音羽の返事は一拍も遅れなかった。
「常連の田中さんが来る日ですよ。ほら、立ってください。夜営業まであと2時間しかないんですから」
「無理。今の俺は、骨抜きにされた茹でブロッコリーと同じだから」
店長は完全に目を閉じて、寝たフリを決め込み始めた。
「まったく、もう。ブロッコリーには元々骨なんかありません」
音羽は小さくため息をつき、首の後ろを掻いた。
いつもならここで「がんばってくださいよ」とお願いするか、「じゃあ勝手にしてください、アタシがやりますから」と突き放すところだ。
けれど、今日の店長の生気のなさは、少しだけいつもと違って見えた。
(この人、本当に疲れてるな……)
そう気づいてしまうと、放っておけないのが音羽がかかっている呪いである。
音羽は厨房へ戻ると、冷蔵庫から「あるもの」を取り出し、まな板の上で手早く包丁を動かした。
数分後、店長の枕元──ではなく、椅子の横のテーブルに、ダンッと少し強い音を立てて小皿が置かれた。
「……ん?なにこれ」
店長が薄目を開けると、そこには、くし形に切られた生のレモンがいくつか並んでいた。
「叱咤激励の差し入れです。食べてください」
「え、しった……なに? てか、それレモンだよね。食べろって、そのまま?」
「そうです。テレビで見たんですけど、やる気が出ない時は、クエン酸と『いつもと違う刺激』を脳に与えると、一気にやる気スイッチが入るらしいですよ。ほら、早く、皮ごとガブッと」
「いやいや、酸っぱいだけでしょ!罰ゲームじゃん!」
店長は身を翻して拒否しようとしたが、音羽の目は恐ろしいほどに真面目だった。
「いいから、アタシの気が済まないので食べてください。さっき元気がでる”甘〜い魔法”をかけてきたんです」
と、フォークも使わずにレモンを店長の口元へ突き出す。
「甘いんなら……」
そう言いつつ断りきれない圧に押され、店長は覚悟を決めてレモンをひとかじりした。
「──ッッ〜〜〜〜〜〜〜!!!」
強烈な酸味が口いっぱいに広がり、店長の顔が梅干しのように歪む。
耳の付け根まで一気に血が巡るのが分かった。
「酸っっぱ!! え、何これ、めっちゃ酸っぱい!?」
「どうですか、やる気出ました?」
「出るわけないよ! 逆に目がチカチカして何も考えられない! 音羽さん、これ全然甘くないんだけど!」
店長は立ち上がり、カウンターの水を一気に飲み干した。
文句を言いながらも、ドタバタと動き回る店長を見て、音羽はふっと口元を緩めた。
「……でも、立ち上がりましたよね」
「え?」
店長が動きを止める。
気づけば、椅子から完全に立ち上がり、顔に赤みが戻っていた。
「とりあえず、茹でブロッコリーからは脱却したみたいなのでセーフです」
音羽はそう言うと、さっさと小皿を片付けにシンクへと向かってしまう。
その後ろ姿を見つめながら、店長は口の中に残るレモンの酸っぱさと、胸の奥にじわじわと広がる別の熱に、小さくため息をついた。
(甘い魔法って、もしかして甘くなる魔法じゃなくて、こういう”いたずら”のこと?)
「……本当、ずるいなぁ、お前は」
「店長、スープの仕込み、大根多めでいいですか?」
髪を少し直し、いつもの仕事モードに戻った音羽が、振り返らずに尋ねる。
「いや、今日はちょっと肌寒いからさ、生姜をいつもより多めに入れよう。常連さんたち、喜ぶと思うし」
店長はコックコートの袖をまくり、砥石で研ぎ澄まされたお気に入りの包丁を握った。
まな板を叩く規則正しい音が、静かな店内に響き始める。
「別人みたいですね。たまに本気出すと寿命縮まるんじゃなかったんですか?」
「うるさいな。これでも一応、この城をずっと守ってきたプロだからね。……それと」
店長は包丁の手を止めずに、ボソッと付け足した。
「……世界で一番好きな料理、今日も作らないといけないし」
その一言が、かつての夜の会話をなぞるように、厨房の空気を一瞬だけ甘酸っぱく変える。
音羽は冷蔵庫の扉を開けたまま、完全に動きを止めた。
じわじわと、耳の裏から首筋にかけて、レモンのせいではない熱が上がっていくのが分かった。
「……それ、ちゃんと覚えててくださいね」
聞こえないくらいの小さな声で呟き、音羽は冷たい冷蔵庫の奥へ顔を隠すようにして、野菜を取り出した。
外では夕方の柔らかい光が差し込み、今宵も開店を告げるベルの音が、もうすぐそこまで近づいていた。




