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ちゃんと覚えててくださいね

 開店準備の時間は、いつも決まって忙しい。

 しかし今日は、少しだけ空気が違っていた。


「……やべえ」


 仕入れ表を見た店長が、頭を抱える。

「キュウリの仕入れ忘れた……今日のランチ出せない」

 一瞬、厨房の音が止まる。

 冷蔵庫を開けても、そこにあるべきものは当然ながらない。

(やったなこれ……)

 血の気が引いていく感覚。

 ランチメニューの一部が成立しないというのは、この店にとっては致命的だった。

「何やってるんですか、店長は」

 横から、冷静な声が飛んできた。

 音羽だった。

 呆れたような目。

 だが、その動きは一切止まっていない。

「ちょっと確認してたら、完全に抜けてました」

「“ちょっと確認”で済む量じゃないですけど」

 即答。


 次の瞬間だった。

 音羽はエプロンの紐を解く。

「アタシ、隣町の八百屋まで走ってきます」

「は?」

 店長が反応するより早い。

「開店まで30分、店長はスープの準備進めててください!」

「いや待てって、お前──」

 言い終わる前に、音羽はもう動いていた。

 財布とスマホだけを持ち、裏口へ向かう。


 躊躇がない。

 一切ない。

 ドアベルも鳴らないまま、彼女は店を飛び出した。

 残された店長は、しばらくその背中の残像を見ていた。


(……あいつ)

(迷いなさすぎるだろ)


 ため息と同時に、現実に引き戻される。

「スープ……スープな」


 開店5分前。


 厨房の奥が慌ただしくなる中、店の扉が勢いよく開いた。

「間に合いました!」

 息を切らした音羽が立っていた。


 袋を抱え、頬は赤く、髪も少し乱れている。

 明らかに走ってきた顔だった。


 店長は思わず言葉を失う。

「お前……本当に走ったのかよ」

「当たり前じゃないですか」

 即答。

「これ、仕事ですから」


 そう言って、袋をカウンターに置く。

 中には、きれいに並んだキュウリ。

 まだ冷たい。


 店長はタオルを一枚差し出す。

「悪かったな、音羽」

「……別に」

 受け取りながらも、視線は少しだけ逸れている。


 呼吸はまだ整っていない。


「お礼は」

 音羽が、少しだけ口角を上げた。

「今日のまかないのデザートで手を打ちます」

「安いな」

「高くすると怒られるので」

 その言い方は、いつも通りのはずなのに、どこかだけ違った。


 店長は苦笑する。

「助かったよ、本当に」

 その一言に、音羽は一瞬だけ黙る。


 そして、

「……それ、ちゃんと覚えててくださいね」

 小さくそう言って、厨房へ戻っていく。


 開店ベルが鳴る。

 いつもの忙しさが始まる。


 だがその時だけは、キュウリの匂いと一緒に、少しだけ違う熱が残っていた。

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