大学芋の季節
季節は秋。
新しい芋の仕入れが入った日の、閉店後だった。
店内には営業後の静けさと、ほんのり甘い香りが残っている。
厨房には、まだ少しだけ温かい油の匂い。
カウンターに置かれたのは、小さな湯気を立てる小皿だった。
「試作品」
そう言って店長が差し出したのは、大学芋だった。
艶のある綺麗な飴色。黒ごまがぱらりとかかっている。
秋の匂いをそのまま形にしたような見た目。
音羽は、無意識のうちに目を少しだけ輝かせた。
「え、いいんですか」
「毒見係でしょ、一応」
「役得ですね」
箸を伸ばして、一口。
外側が、小気味よくカリッと音を立てる。
そのあとに、じんわりと温かく、ほくほくとした裏ごししたような甘さが口いっぱいに広がった。
「……おいしい」
二口目、三口目。
気づけば、ハフハフと言いながら夢中で食べている。
店長はカウンターに腕を乗せ、すぐ目の前でその様子をじっと見ていた。
少しだけ、口元が緩んでいる。
「どうだ、今年の芋は?」
音羽は口をもぐもぐさせたまま、即答する。
「最高です」
珍しく、食い気味だった。
「外はカリカリで、中はホクホクで……あと蜜の絡み具合も、去年よりずっと好きです。甘すぎなくて、でもちゃんと秋って感じで……」
説明しながら、また次の芋へと箸を伸ばす。
手が止まらない。
店長はその様子を見て、ふっと笑った。
普段の頼りなさとは違う、優しくて、どこか深い色を含んだ目だった。
「お前、本当に俺の作ったもの好きだな」
その瞬間。
音羽の手が、ぴたりと止まる。
──脳裏に、あの夜の光景がフラッシュバックする。
近くに大手のチェーン店ができたあの時期。
売上げが減り、店をたたむことまで、言い出した店長。
そして、音羽が厨房の前で、必死になって言った言葉。
『店長の作った料理、アタシが世界で一番好きなんですから』
『だから、簡単に諦めないでください』
胸の奥が、急に苦しくなる。
熱い。
その熱の正体に、よく10年間ずっと気づかないフリをしてきたものだ。
でも、認めるには、まだ少しだけ怖い。
(言え!)
(いや、無理)
(でも、今なら……)
(いや、でも、もし壊れたら──)
心臓が、耳の奥でうるさいほどに脈打つ。
大学芋の甘さのせいなのか、自分の体温のせいなのか、もう何も分からない。
口をもぐもぐさせながら。
視線を、必死に斜め下へと逸らしながら。
人生で一番の勇気を、その声に乗せる。
「……店長」
「ん?」
「アタシ、好きなんです」
一瞬。
世界の時間が止まった。
店長の目が、少しだけ、本当に少しだけ見開かれる。
しかし、音羽の口から次に飛び出した言葉は、
「……店長の作った、大学芋が」
沈黙。
音羽の耳が、みるみるうちに赤くなっていく。
自分でも血が上るのが分かるくらいに熱い。
蜜より甘いとか、そういう可愛いレベルではない。
(何言ってんのアタシ!!)
(逃げた!!)
(しかも、ものすごく不自然!!)
店長は、一瞬だけ黙っていた。
でも、その顔は驚きから、少しずつ別のものへと変わっていく。
たぶん。
いや、絶対に、全部察した。
でも、この人は何も言わない。
今のこの距離を、何も壊さない。
少しだけ照れたように頭を掻いて。
ほんの少しだけ、音羽から視線を逸らしながら。
「……そうか」
静かな声。
「じゃあ……これからも毎年、作ってやるよ」
音羽が、きょとんと顔を上げる。
「……毎年?」
「そう。来年も、再来年も……」
店長はそこで一度言葉を切った。
ほんの少しだけ目を逸らして、照れ隠しみたいに頭を掻く。
「……まぁ、そういうことだ。好きなんだろ、大学芋」
──たぶん、いや、絶対に、この人、今、何か、言った。
胸がどくん、と跳ねる。
「て、店長、それって──」
「……ちょっと、仕込みしてくる」
逃げた。
店長はそれだけ言うと、耳の先を赤くしたまま、そそくさと厨房へ引っ込んでしまう。
残された音羽は、しばらくその背中を見つめていた。
来年も。
再来年も。
その次も。
また、その次も。
秋になれば、ここで、一緒に。
「え、ちょっ……えっ?」
そこまで考えて、ぶわっと顔が熱くなる。
それこそ、プシューっと、湯気がでるぐらい。
胸の奥もうるさいぐらいに暴れている。
これ以上考えたら駄目だと思い、音羽は慌てて大学芋を一つ口に放り込んだ。
甘い。
さっきまでより、ずっと。
ずっ〜と、甘い。
こうして秋になるたび、この店の仕込みメモには、大学芋が少しだけ多く書き込まれるようになった。
小さく乱れた店長の字の横には、いつからか、音羽の描く小さな花丸が並ぶ。
それが何の印なのか、きっと、二人だけが知っている。




