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昼行灯の本気と炭酸の刺激

 夕方前、まだ営業前の店に電話が入った。


「すみません、急なんですが……子供会の集まりで、オードブルを30人分お願いできませんか。2時間後までに……」


 一瞬、店内の空気が止まる。

 仕込みの進み具合、残りの食材、使えるコンロの数。頭の中で計算が弾き出されるより早く、


「分かりました。2時間ですね。やらせていただきます」


 店長は即答していた。


 電話を切ったあと、短い沈黙。

 音羽が口を開くより早く、店長は言った。


「よし、やるか」


 その声は、いつもより半トーン低かった。


 コックコートの袖をまくり、包丁を握った瞬間だった。

 劇的に、空気が変わる。


 規則正しく刻まれるまな板の音。

 一発で激しく立ち上がる火の音。

 食材が恐ろしい速度で処理され、次々と形を変えていく。


 いつもは少し丸まっていて頼りない店長の背中が、その時だけは、信じられないほど大きく見えた。


 無駄がない。

 迷いがない。

 一手一手が、すでに完成形を知っている動きだった。


「音羽、次これ。3分で火通して」

「はいっ」


 指示は短い。

 差し出されるフライパンを受け取り、音羽は必死でその背中に追いつこうとする。

 火の入れ方、盛り付けのタイミング、すべてが濁流のようなスピードなのに、二人の間ではまるで美しい呼吸のように繋がっていく。


 音羽はふと、息を呑んだ。


(……この人、こんな顔をするんだ)


 普段の店長とは違う。

 試作に失敗して頭を掻いたり、音羽の小言に「へへ、すまん」と笑ったりする、あの抜けた人はどこにもいない。

 前髪の隙間からのぞく鋭い眼光。

 今、目の前にいるのは、この城を10年守り続けてきた圧倒的な“プロの料理人”だった。


 時計の針が進む。

 けれど、焦りはない。

 ただ、厨房の密度だけが、限界まで上がっていく。


 そして──


「よし。時間ぴったり」


 最後の一皿が完成する。

 30人分のオードブルが、カウンターに壮観に並んだ。


 厨房の中に、心地よい静寂が落ちる。

 直後、店長の肩から一気に力が抜けた。


「……終わったなぁ」


 店長は包丁を置き、首をぐるりと回す。

 額にはうっすらと汗。

 それでも、やり遂げた男の顔は、驚くほど端正だった。


「すごかったですね……」


 音羽の口から、無意識に言葉が漏れていた。

 その声には、いつもの皮肉も、経営を気にする棘も、ひとかけらもなかった。


「ん? 何が?」

「今の店長」

 店長は少しだけ首をかしげる。

「今の?」

「……なんか、別人でした。ちょっと、かっこよかったです」

 最後の言葉は、音羽自身も気づかないほどの小さな呟きだった。


 店長は一瞬だけ丸くなった目を見開いたあと、

「あー」

 と、いつもの気の抜けた声を出す。

「たまにね、こうなる。でも本気出すと寿命縮まるから、明日からはまた昼行灯に戻るわ」


 軽く笑う。

 その瞬間、いつものヘタレ店長が帰ってきた。

 音羽は、その落差の激しさに言葉を失い、それから──胸の奥がぎゅっと熱くなるのを感じた。


「あー、喉乾いた」


 店長が冷蔵庫から取り出した1.5リットルの炭酸ジュースを、ラッパ飲みでゴクゴクと喉を鳴らして飲む。

 その男らしい喉仏の動きを、音羽はなぜか直視できず、慌てて視線を外しながら言った。


「アタシにも少しください」

「はいよ。コップ出す?」

「いいです、面倒くさい」


 手渡されたペットボトルを、音羽は受け取る。

 口をつける直前、ハッと気づいた。

(あ、これ……店長が今、口つけたやつだ)


 けれど、今さらコップを出すのも不自然だ。


「……いただきます」


 音羽は何も考えないフリをして、そのままボトルを傾けた。

 冷たい炭酸が、喉を激しく潤していく。


 飲み終えてボトルを戻した瞬間、店長と目が合った。

 店長の視線が、音羽の唇から、自分の手元にあるペットボトルの飲み口へと静かに移動する。


「……あ」


 店長が照れ隠しに、頭を掻く。

「……まあ、いいか。10年も一緒に店をやってきたんだし。今さら、な」

「そうですね」


 音羽も小さく答えた。

 しかし、たまらなくなって勢いよく後ろを向く

 赤くなった耳を、空になった両手で隠すように


 店長の言った「今さら」が、なんだか特別な意味を持っているように思えて仕方がない。

 口の中に残る炭酸の刺激が、やけに熱く、いつまでも消えなかった。

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