エプロンと砥石
見慣れた店内の、見慣れた営業後の風景。
明日の仕込みや片付けを終え、帰る準備をしている音羽に、
店長が何気ない調子で言った。
「今日、仕入れのついでに、ちょっと寄り道してきたんだよね」
「珍しいですね」
音羽は、荷物をまとめながら答える。
「まあね。ちょっとだけ」
店長はカウンターの奥から、小さな紙袋を取り出した。
「これ。……一応さ」
「え?」
差し出された袋を、音羽は不思議そうに受け取る。
中に入っていたのは、仕立ての良いエプロンだった。
今のものより少しだけ上質で、なにより、彼女のサイズに驚くほどぴったり合うものだった。
「……これ、どうしたんですか」
音羽の手が止まる。
店長はきまり悪そうに、少しだけ視線を逸らした。
「いや、ほら。音羽、うちに来てちょうど10年でしょ。だから、まあ……一応、ね」
“記念日”という言葉は出なかった。
けれど、それ以上は必要なかった。
音羽は一瞬だけ固まり、それから、胸の奥の熱を逃がすように小さく息を吐いた。
「……そういうの、ずるいです」
「何が?」
「別に」
ぶっきらぼうに答えた音羽だったが、
今度は、自分のカバンの底から、同じように小さな紙袋を取り出した。
「じゃあ、アタシも」
「ん?」
「今日、これ持ってきてるんで」
カウンターに置かれたのは、細長い箱。
店長が驚いた顔で開けると、中に入っていたのは、少し良い包丁用の砥石だった。
実用的で、派手さはない。
けれど、店長がこないだ「これ、よさそうだなぁ」と熱心にカタログを見ていた、まさにそのものだった。
「え」
店長が固まる。
「これって……」
音羽の口調が、急に早口になる。
「別に、深い意味はないです」
「たまたま、見かけたからで」
「それに、これ仕事用ですから」
言い訳が三段階で積み上がる。明らかに不自然だった。
すでに彼女の耳の付け根は、真っ赤に染まっている。
店長はゆっくりと砥石を手に取り、それから、降参したように小さく笑った。
「……これさ」
「はい?」
「たぶん俺たち、同じこと考えてたよね」
音羽の動きがピタリと止まる。
「……偶然です。ただの」
即答だった。
しかし、店長の目元は緩んだままだった。
「うん、そうだね。偶然だ」
少しの間。
店長が、ぽつりと言い足す。
「でもさ。こういう偶然って、ちょっと嬉しいよね」
その一言で、車内のあの時のように、店内の空気が一瞬で甘酸っぱく変わる。
音羽は黙ったまま、視線を激しく右往左往させたあと、消え入るような声で呟いた。
「……それは、よかったです」
静かな店内。
また、二人の間で片付けの音だけが戻ってくる。
どちらも、それ以上の言葉は口には出さない。
出さなくてもいいと、10年の月日が教えてくれている。
記念日というほど大げさではない。
でも、ただの一日でもない。
その夜、店の明かりを消すとき、
二人とも、全く同じことを思っていた。
(明日からもまた、この店で──)




