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広い背中

 それは、夜のピークが少し落ち着いた頃だった。

 店内は半分ほど埋まっている。

 その中で、ひとつだけ空気の温度が違うテーブルがあった。


「だからさぁ、遅いんだよ」

「ただいま──」


 アタシの声は、いつもより少しだけ硬かった。

 相手は明らかに酒が入っていて、声量が大きく、言葉の端が荒い。

 最初は軽いクレームだったものが、徐々に方向を変えていく。


「さっきから待たせすぎだろ。他の客と差つけてんのか?」


 男のねちっこい視線と、巻き舌の混じった威圧感。

 周囲の客がそわそわと視線を逸らし、店の空気がじわじわと凍りついていくのがわかる。


 「す、す……」

 

 アタシが、すみません、と謝ろうとした、その時だった。


「お客様」


 恐ろしいほど静かな店長の声が聞こえた。

 厨房から出てきた店長の顔を見て、アタシは息を呑む。


 店長は笑っていた。

……いや、笑っているのは口元だけだった。

 目だけが、何も映していなかった。


 アタシは、気圧されて空いた椅子に倒れるように座ることしか出来なかった。


 店長は、そんなアタシの前にすっと立った。

 それだけで、視界が変わる。

 視界のすべてが店長の着古したシャツの背中で満たされ、男の荒い息遣いが、一瞬で遠のいた。


「うちの従業員に、何か問題でもありましたか」


 一拍。

 店内の喧騒が、完全に消える。


「お話なら、私が伺います」


 感情を抑えているのではない。

 そもそも、感情を見せる必要などないと言わんばかりの、低く響く声。


 さっきまで大声を張り上げていた男が、わずかに言葉を詰まらせる。

 店長は一歩も動かない。

 ただそこに立っているだけなのに、逃げ場を塞ぐような圧倒的な圧がある。

 しかし、決して声を荒らげない。

 威圧するのではなく、紳士的に“退路だけを残してある”大人の圧力だった。


 やがて、男はきまり悪そうに舌打ちをして、財布を掴んで席を立つ。


「……もういいよ」


 そう吐き捨てて、逃げるように店を出ていった。

 ドアベルが、乾いた音を立てて響く。




 張り詰めていた静寂。

 数秒後、店長の肩から、ふっと力が抜けた。


「……いやー、怖かったね今の」


 くるりと振り返った店長は、もういつもの調子に戻っていた。


「足、ちょっと震えてるわ」


 苦笑しながら、情けない顔で自分の膝をトントンと叩く。

 いつもの、少し頼りない笑顔。


「……店長」


 アタシの声は、少し遅れて出た。

 いつもより、ずいぶん小さい。


「ん?」


 しかし、アタシの網膜には、さっきの残像が焼き付いて離れなかった。


 あの広い背中。

 一歩も引かなかった立ち位置。

 自分の前に、当然のように立ちはだかった瞬間。


……ああ、この人、こういう人だったんだ。


 いつも、自分が前を歩いているつもりだった。

 現場を回すのは自分で、判断するのも自分で、頼りないこの人を支えているのは、自分だと。

 そう自負していた。


 でも、違った。

 本当に守らなければいけない瞬間、この人は一瞬で自分の前に立ってくれる。


「……別に、大したことないよ」


 店長は、少し照れくさそうに頭を掻いて笑う。


「こういうの、たまにあるし」


 その言葉に、アタシは何も返せなかった。

 ただ、ドクドクとうるさい自分の心臓の音だけが、やけにはっきりと耳の奥で響いている。


……さっきの背中は、絶対に忘れない。


 守られたからじゃない。


 この人となら、この店を守っていける。


 そういう、静かで、絶対に揺るがない理由そのものだった。

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