人生相談コーナー
閉店後。
店のシャッターは半分閉まり、厨房には仕込みの音だけが残っていた。
包丁がまな板を叩く音。
煮込みの湯気。
換気扇の低い唸り。
そして、いつもの深夜ラジオ。
『──この時間は、人生相談のコーナーです』
パーソナリティの軽快な声が流れる。
店長は手を動かしながら、「あー、このコーナーか」と何気なく呟いた。
音羽は冷蔵庫の整理をしながら、なんとなくそれを聞き流している。
『ラジオネーム、迷子のアラサーさん』
少し笑い声が入る。
『私は32歳、独身の女性です』
その瞬間。
なぜか、音羽の手が止まる。
『歳の離れた上司に、ずっと片思いしています』
店内の空気が、ほんの少しだけ凝固した。
包丁の音が、一瞬だけ遅れる。
冷蔵庫の扉を閉める音も、少しだけ不自然に大きくなる。
(……いやいや)
音羽は無表情を装う。
(別に、たまたま似てるだけだし)
一方、店長も包丁を動かしながら、心中で冷や汗をかいていた。
(なんだこの、絶妙に気まずいやつは)
しかし、ここで急にチャンネルを変えるのも不自然すぎる。だから、大人の余裕を装って聞き流すしかない。
『相手はすごく優しい人です』
『でも、私のことをただの部下としか思っていない気がします』
『仕事の関係もあるので、気持ちを伝えるべきか迷っています』
沈黙。
今は換気扇の音だけが、やけに元気に響いている。
店長は妙に真剣な目つきでネギを刻み始める。
音羽は必要以上に細かく、ドレッシングのボトルを並べ替え始める。
どちらも、忙しいフリが雑だった。
ラジオからは、パーソナリティののんきな声が続く。
『いや〜、これ難しいねぇ』
『ただ30代ってさ、待ってるだけだとあっという間に時間過ぎるからね』
「……」
「……」
どちらも反応しない。
しかし、お互い、絶対に鼓膜を凝視している。
(……どう思ってるんだろ)
音羽は、気づかれないように横目で厨房の奥を盗み見た。
店長は真顔で鍋を混ぜていた。
──しかし、その耳の付け根だけが、妙に赤い。
(え、聞いてる)
(絶対、意識して聞いてる)
一方の店長も、
(音羽、今どんな顔してんだ)
と気になって仕方がない。だが、そっちを向く勇気がどうしても出ない。
ラジオの声は、追い打ちをかけるように続く。
『告白しなくてもさ、“特別扱いされてるか”を見るのも手かもよ?』
『例えば、他のお客さんや従業員とは、明らかに違う扱いとかね』
その瞬間。
二人の脳裏に、全く同じ記憶がフラッシュバックした。
──一本しかなかった、あのフルーツタルトのフォーク。
──風邪をひいた夜の、お粥と合鍵。
──店を臨時休業にしてまで取らせた、有給。
──棚の奥に「封印」された、あのウイスキー。
(……いや)
(考えるな、アタシ)
沈黙が重い。
恐ろしいほどに、重い。
そして最後に、パーソナリティが笑いながら言った。
『でもまあ、10年も近くにいるなら、もう答えなんて出てそうだけどね〜』
──ガタン!!
音羽が、必要以上に強くボウルをステンレスの台に置いた。
「……店長」
「ん?」
声が、少しだけ硬い。
「ラジオ、うるさいです」
「えっ、俺のせい!?」
店長は慌てて、即座にラジオの電源を切った。
ブツッ、と音が消え、店内には換気扇の音だけが虚しく残る。
急に静かになった空間が、かえって居心地悪い。
しばらくして、店長は首の後ろを掻きながら、消え入りそうな声で小さく言った。
「……いやでも、ちょっと気になる終わり方だったな」
数秒の、張り詰めた沈黙。
音羽は再び背中を向け、作業をしながら、消えそうな声でぽつりと呟く。
「……別に、答えなんて簡単には出ませんよ」
その横顔が、ラジオの赤いインジケーターの光よりもずっと赤くなっているのを、店長は今度こそ、はっきりと目撃していた。
少しだけ、夜の温度を熱く変えたまま、二人の仕込みは続いていく。




