有給休暇の失敗(店長視点)
「有給休暇の失敗」の別バージョンとして、ちょっと趣向を変えて店長の一人称視点でお送りします。
いつもと少し違う二人の距離感をお楽しみください!(現行バージョンもそのまま残してあります)
「有給かぁ……」
飲食店の経営者会合から帰る道すがら、俺は夜風に吹かれながらぽつりと呟いた。
会合の雑談で「有給休暇」についての話題が上がったのだ。
他のオーナーたちの話を聞きながら、俺はハッとした。
そういえば、定休日以外に音羽へまとまった休みを与えたことがない。
音羽の口から「休みが欲しい」と言われたことがなかったから、そのままで来てしまった。
けれど、どうやら従業員が有給を取らないというのは、経営者としての責任問題にもなるらしい。
最近は忙しい日も増え、音羽がいないと店が回らない。
それでも、日頃の感謝の気持ちを持って、しっかりと彼女を労いたい。
それが、経営者として、いや、一人の男としての本音だった。
次の日の閉店後。
片付けが終わった頃を見計らって、俺は何気ない調子で切り出した。
「音羽さん、来週一週間は有給な」
音羽の手が止まる。
台ふきんを握ったまま、眉をひそめた。
「……は?」
「有給。どっか遊びに行ってきなよ。お店も臨時休業にするし、俺は掃除でもしてるから」
できるだけ自然に、明日の仕入れでも伝えるくらいの軽さを意識して言ったつもりだった。
「いやいやいや」
音羽はすぐに首を振った。
「お客さんは来るし、アタシ働きますよ。休みにする必要ないでしょ」
「ダメ、これは店長の命令」
「命令って……うちはブラック企業ですか」
俺としては、音羽が気持ち良く働けるホワイトな職場にしたいと心から思っている。
だが、現状で有給休暇すらなかったのだから、「ブラック」と言われたらそれ以上言い返せなくなってしまう。
情けないが、そこが一番辛い。
「うちはホワイトだよ。たぶん」
「たぶんって何ですか。経営者がそんな適当でどうするんですか」
だから、今回ばかりは俺も引く気がなかった。
「いいから休み」
自分の声が、いつもより少しだけ低く、強くなるのが分かった。
音羽はしばらく不満そうに俺を睨んでいたが、やがて諦めたように小さく息を吐いた。
そして、有給が始まって数日。
俺は一人、誰もいないカウンターの中に立っていた。
ダクトの掃除も、床のワックス掛けも、とっくに終わっている。
もうこれ以上、やることが何もない。
(……静かだな)
いつもなら、そこに音羽がいる。
いつもなら、俺の要領の悪さに小言を言う、小気味いい声がある。
それが、今日はない。
「……あいつ、今頃何してんだろ」
ぽつりと呟いた声が、誰もいない客席に吸い込まれていく。
返事はない。当然だ。
カウンターの上を拭く手が、無意識に少しずつゆっくりになっていく。
(意外と……広いんだな、この店)
10年間、一度も思ったことのない雑感が、胸をよぎった。
夕方。
ドアベルが鳴った。
カランと乾いた音。
「……え」
俺は勢いよく顔を上げる。
そこに立っていたのは、音羽だった。
普段着のまま。
少しだけ、決まり悪そうな顔をして。
「音羽、休みだよな……」
「はい。休みです……だからコーヒー飲みにきました」
そう言って、音羽はいつものカウンターの定位置に腰を下ろした。
「……まぁ、いいけどさ。それじゃ、何にする?」
「エスプレッソ、お願いします」
それは、俺がいつも飲んでいるコーヒーだ。
注文通りにデミタスカップへ抽出し、カウンター越しに差し出す。
少しだけカップを傾けて口をつける音羽を見ながら、ふと聞いてみた。
「珍しいな、お前がエスプレッソ飲むなんて」
「今日は、そういう気分なんです」
音羽はぶっきらぼうにそう言いつつ、山盛りのグラニュー糖をカップへ投入した。
スプーンのカチカチという硬い音が店内に響く。
……それって俺の飲み方と一緒だよな。
「私が払いますから、店長も飲んでくださいよ」
「なんだよ、そのキャバクラみたいなシステムは。お金はいいよ、音羽からは流石に貰えないし」
俺は苦笑しながら、ネルの準備をする。
今度は俺が、いつも音羽が飲んでいるモカの豆を挽き始めた。
それを見た音羽が、慌てたように身を乗り出してきた。
「ちょっと店長、ネルまで出したら、片付けるの大変です。アタシが帰りに洗いますから」
「えっ、お前今日休みだろ」
「そ、そうなんですけど……」
音羽はそこで言葉を詰まらせ、ほんの少しだけ俯いた。
いつもの強気な彼女はどこへやら、妙におとなしく、消え入りそうな声でポツリと言う。
「休みの間、いろいろやってみたんですが……つまんないんです」
心臓が、ドクンと嫌な跳ね方をした。
「でも……今みたいな休みなら、また欲しいです」
ドリップの手を止めてしまいそうになるのを、必死でこらえた。
店の中が、さっきまでとは違う意味で、妙に静まり返っていく。
まるで。
いや、違う。
絶対に違う。
こいつはそういう意味で言っているわけじゃない。
俺は必死に自分へ言い聞かせ、ネルからぽたぽたと落ちる琥珀色の液体を見つめながら、いつものヘタレたトーンを絞り出した。
「まぁ、なんだな。有給休暇、あんまり成功じゃなかったみたいだな」
すると音羽も、ほんのりと耳を赤くしたまま、視線を斜め下へと逸らす。
「そうですね。有給休暇、失敗ですね」
そう言って、音羽はドルチェを味わうように、エスプレッソを小さく口に含んだ。
目の前には、俺の淹れたモカの香りが静かに立ち上っている。
ただのコーヒー。
それなのに、流れる空気の温度は、いつもよりずっと熱くて、どうしても上手く呼吸ができなかった。
「心臓が、ドクンと嫌な跳ね方をした。」
……店長、不整脈ですか?
いいえ、恋愛性頻脈……慢性音羽依存症の発作です。




