有給休暇の失敗
「音羽さん、来週一週間は有給な」
閉店後の片付けが終わった頃、店長が何気ない調子で言った。
音羽の手が止まる。台ふきんを握ったまま、眉をひそめた。
「……は?」
「有給。どっか遊びに行ってきなよ。お店も臨時休業にするし、俺は掃除でもしてるから」
あまりに自然な言い方だった。
まるで、明日の仕入れを伝えるくらいの軽さで言っている。
「いやいやいや」
音羽はすぐに首を振った。
「お客さんは来るし、アタシ働きますよ。休みにする必要ないでしょ」
「ダメ」
即答だった。
「これは店長の命令」
「命令って……うちはブラック企業ですか」
「うちはホワイトだよ。たぶん」
「たぶんって何ですか。経営者がそんな適当でどうするんですか」
言い合いになりかけるが、店長はもう引く気がなかった。
「いいから休み」
その一言だけが、いつもより少しだけ低く、強かった。
音羽はしばらく黙ったあと、諦めたように小さく息を吐いた。
「……わかりました」
不服そうではあるが、最終的には折れる。
それがいつもの二人の形だった。
そして、有給が始まって数日。
音羽は自宅の部屋で、ソファに転がっていた。
ゴロゴロする。スマホを見る。テレビをつける。
全部やっているのに、どうしても落ち着かない。
(……何してんだろ、今)
ふと、そう思う。
浮かぶのは、あの店の、あの人の顔だ。
厨房で一人で仕込みをしている姿。
開店準備でバタバタしている姿。
レジで小さなミスをして、頭を掻いている姿。
(あの人、絶対また勝手に新しい包丁増やしてる)
(冷蔵庫の中、アタシがいないとぐちゃぐちゃになってそう)
(ていうか掃除、絶対雑になる。棚の上が埃だらけになるに決まってる)
臨時休業にしてあるから、そんな心配はしなくてもいいばすだ。
でも、考えれば考えるほど、胸のあたりがざわついて落ち着かない。
「……休みって、何すればいいんですか」
誰もいない部屋で、ぽつりと言った。
10年間。毎日あの店にいた生活が、思った以上に、呪いみたいに体に染みついていた。
一方その頃、店。
店長は一人でカウンターに立っていた。
掃除はとっくに終わっている。もうこれ以上、やることがない。
(……静かだな)
いつもなら、音羽がそこにいる。
いつもなら、小言を言う彼女の声がある。
それが、今日はない。
「……あいつ、今頃何してんだろ」
ぽつりと呟いた声が、誰もいない客席に吸い込まれていく。
返事はない。当然だ。
カウンターの上を拭く手が、少しだけゆっくりになる。
(意外と……広いんだな、この店)
10年間、一度も思ったことのない雑感が、胸をよぎった。
夕方。
ドアベルが鳴った。
カランと乾いた音。
「……え」
店長が勢いよく顔を上げる。
そこに立っていたのは、音羽だった。
普段着のまま。
少しだけ、決まり悪そうな顔をして。
「……様子見に来ただけです」
「いや、休みだろ」
「はい。休みです」
即答。
数秒、沈黙が流れる。
その間に、二人とも全く同じことを思っていた。
(あ、やっぱり)
(お前がいないと変だ)
(店長がいないと、つまらない)
店長が、ふっと小さく笑った。
「休み、失敗?」
音羽も、ほんの少しだけ耳の付け根を赤くして、視線を逸らした。
「……たぶん」
その一言で、すべてだった。
言い訳も、理由も、これ以上は野暮だった。
「じゃあさ」
店長が、いつものトーンで言う。
「コーヒーでも飲む?」
「……アタシ、有給中ですけど」
「店も休みだし、仕事じゃないから別にいいでしょ。ただの奢り」
音羽は少しだけ間を置いて、小さく口元を緩めた。
「……しょうがないですね」
カウンターに並んで座る。
誰もいない店内。
いつもより静かなはずなのに。
なぜか、今日の中で、今が一番落ち着いた。




