陽だまりのコロッケ
昼下がりの店内は、少しだけ時間の流れがゆるくなっていた。
ランチのピークを過ぎ、客もまばらになった頃、ドアベルが、からん、と気の抜けた音を立てる。
「いらっしゃいませ」
音羽が伝票から顔を上げるより先に、店長がカウンターの奥から立ち上がった。
入ってきたのは、小柄な年配の女性だった。
少し頼りない足取りで、きょろきょろとあたりを見回している。
その顔を見た瞬間、店長の目元がふっと和らいだ。
「いらっしゃい、おばあちゃん。久しぶりだね」
迷いのない声だった。
それは、マニュアル通りの「接客」の声ではない。
もっと前から、それこそ10年前から途切れずに続いている、親しい身内に向けるような声だった。
「今日はね……昔よく食べてたやつ、まだあるかねぇ」
おばあちゃんは少し首をかしげる。
記憶の糸を手繰り寄せるように、おぼつかない視線でメニューの短冊を見つめていた。
店長は笑う。
いつもの、少しうだつの上がらない笑みではなく、包み込むような柔らかい笑顔のまま。
「あるよ。おばあちゃん、うちのコロッケが大好物だったでしょ」
「……あれ、そうだったかねぇ」
「そうそう。今日も、衣をちょっと柔らかめにして揚げるね」
「そうだったかねぇ……ありがとねぇ」
音羽は、そのやり取りをカウンターの端から、ふきんを動かす手を止めて見ていた。
いつもの戦場のような忙しさの中では見えない、凪いだ時間。
店長の声の温度が、自分と二人の時ともまた違う、おだやかな陽だまりのようだった。
料理が出るまでの間、店長は特別なことを何もしていない。
ただ、いつも通りにキャベツを千切り、いつも通りの手順で油の前に立つ。
なのに、その一つ一つの所作が、まるで割れ物を扱うように丁寧だった。
(……ああ)
音羽は、胸の奥を小さな指で突かれたような感覚を覚える。
(この人、ずっとこうだったんだ)
誰に対しても同じ。
何年も通ってくれる常連にも。
偶然ふらりと入ってきただけの旅人にも。
そして、10年前、どこにも行き場がなくて迷い込んできた、生意気なだけの自分にも。
この人は全部同じ温度で、そこにいていいんだよと、静かに居場所を作ってしまう。
「はい、お待たせ。特製コロッケね」
カウンターに置かれた皿を見て、おばあちゃんの顔にしわが寄る。
嬉しそうに、少しだけ笑った。
「これこれ、これが好きだったんだよ」
「うん。味も変わってないよ」
店長も、何も飾らずに答える。
その横顔を見つめていると、音羽の喉の奥から、熱いものがせり上がってきた。
言葉にすると軽くなるのに、言葉にしないと収まらない、ひどく不器用な感情。
10年前。
この店で働き始めたとき、特別な理由なんてなかったはずだった。
ただの、生活のためのアルバイト。
でも、今なら分かる。
自分がここに残り続けた理由は、給料でも条件でもなくて。
「……ずるいなぁ」
誰にも聞こえない声で、音羽は小さく息を吐いた。
少しだけ目元が熱くなって、わざとらしく裏口の方へ視線を逸らす。
店長は彼女のそんな変化に気づかないまま、鼻歌混じりで次の仕込みに戻っていく。
おばあちゃんは、愛おしそうに、ゆっくりとコロッケを口に運んでいる。
店は、いつも通り静かに回っている。
ただ一人だけ。
その光景の真ん中で、音羽の中の何かが、カチリと音を立てて“確定”していた。
(この人の隣にいる理由、もう説明いらないな)
「店長。アタシ、次のメニューのポップ、書き直しておきますね」
「ん? おう、頼むわ」
いつもの敬語。
いつもの距離。
しかしその確信は、恋愛という都合のいい言葉よりもずっと深く、10年の土壌に、静かに、けれど誰も引き抜けないほど強く根を張っていった。




