お粥の湯気と返してもらえない合鍵
店長が風邪をひいて、店は臨時休業になっていた。
普段は開店前から慌ただしく動いている店内が、今日は妙に静かだった。
その静けさが、逆に体調の悪さを際立たせる。
二階の自室で寝ていた店長は、薬が効いてきたのか、ようやく少しだけ呼吸が楽になっていた。
(……だいぶマシになってきたな)
そう思った瞬間だった。
空腹が、急に現実として戻ってくる。
胃が軽く鳴る。
「……腹、減ったな」
掠れた声が、天井に吸い込まれた。
その時だった。
階下から、鍵の開く音がした。
「……え?」
次の瞬間、階段を上がってくる足音。
スリッパの、パタパタという軽い音。
(いや待て、今、俺以外誰もいないはず──)
ドアが開く。
音羽だった。
「勝手に人んち入らないで」
布団を頭まで被ったまま、店長は掠れた声で言った。
熱のせいか、心臓の音がやけにうるさい。
しかし、それだけではない気もしていた。
「勝手じゃありません」
即答だった。
音羽の声。
いつもの落ち着いた声のはずなのに、少しだけ硬い。
「鍵、10年前にもらいましたよね」
当然の事実のように言われる。
(……そうだった)
反論できない。
できないが、納得したくもない。
店長の様子を確認した音羽は、一度部屋を出て行った。
階下から、鍋の小さな音がして、湯気の立つお盆をもった音羽が入ってくる。
「お粥です」
出汁の香りが、布団の隙間に入り込んでくる。
それだけで、少しだけ生き返るような気がした。
店長は布団の端から、そっと覗く。
音羽はエプロン姿のまま立っていた。
仕事用の格好。
つまり、完全に“仕事”の延長線上。
なのに今は、ここにいる。
「……冷めないうちに、食べてください」
そう言って、彼女はお盆を少し持ち直した。
その手が、ほんのわずかに震えている。
気のせいかもしれない。
でも、気のせいじゃない気もした。
立ち去ろうとした背中に、店長は小さく声をかける。
「……なあ」
音羽の肩が、ほんの少しだけ止まる。
「これ、仕事?」
「……違います」
即答だった。
嘘ではないと分かる。
静寂。
時計の音だけが、やけに大きい。
布団の中で、店長は少しだけ笑った。
「じゃあさ」
「はい」
「……助かった」
その言葉に、音羽は一瞬だけ黙る。
そして、
「どういたしまして」
とだけ言って、視線を逸らした。
ドアが閉まる。
足音が遠ざかる。
部屋に残るのは、お粥の湯気と、妙に静かな空気だけだった。
店長は天井を見上げながら、小さく呟く。
「……合鍵、返してもらうタイミング、もうないな」
誰にも聞こえない声だった。




