世界で一番好きな料理
仕事が終わったあとの店内は、昼とは別の顔をしていた。
椅子は整えられ、テーブルも拭かれ、厨房の熱もすっかり引いている。
残っているのは、わずかな油の匂いと、静けさだけだった。
二人はカウンターに並んで座っていた。
珍しく、どちらも手を動かしていない。
「そういえばさ」
店長が、ぽつりと言った。
「昔あったよね。チェーン店できた時」
音羽が、一瞬だけ固まる。
「……ありましたね」
五年目。
近くに大手のチェーン店ができたあの時期。
昼時の客は半分以下に落ち、常連も少しずつ流れていった。
数字が減るのは、思っていたより静かで、そして確実だった。
「正直、あの時はさ」
店長は少しだけ視線を落とす。
「もう店、閉めようかって思ってた」
音羽はすぐには何も言わなかった。
その沈黙は、否定でも肯定でもない。
ただ、記憶をなぞる時間だった。
あの頃の店は、今よりずっと不安定だった。
客が来る保証はなかったから、仕込みの量を減らすしかなかった。
「でも」
音羽が、小さく言う。
「その時、言いましたよね」
店長が顔を上げる。
音羽は少しだけ視線をそらしたまま続けた。
「店長の作った料理、アタシが世界で一番好きなんですから」
一瞬、空気が止まる。
言った本人が一番気まずそうに、耳まで赤くしている。
「だから、簡単に諦めないでくださいって」
「……あー」
店長は、少しだけ笑った。
「そんなこと言ってたっけ」
「言ってました」
即答だった。
あの時。
音羽は、普段よりも早口だった。
悔しさと焦りと、どうしようもなさを全部ごちゃ混ぜにしたような声で。
厨房の前で、ほとんど半ば怒鳴るように言ったあと、すぐに目を逸らしていた。
「ああぁ……、結構、必死だったよね」
店長が思い出したように言う。
「必死でした」
音羽も認める。
「でも、あの時変わったよね」
店長は続ける。
「新メニュー考えたり、動線見直したり、さ」
「やるしかなかっただけです」
「いや、でも助かったよ」
その言葉は、軽く言ったようでいて、少しだけ重かった。
しばらく沈黙が流れる。
カウンターの上の時計の音だけが、やけに大きい。
音羽は小さく息を吐いた。
「……あの時」
ぽつりと、続ける。
「正直、店長が諦めるの、すごく嫌でした」
店長が、少しだけ目を細める。
「嫌って?」
「嫌は嫌です」
説明になっていないようで、本人の中では完結している言い方だった。
「多分ですけど」
音羽は視線を落としたまま続ける。
「この店なくなるの、アタシも嫌だったんだと思います」
「うん」
「それだけです」
言い切ったあと、少しだけ間が空く。
そして、付け足すように小さく。
「……それだけ、じゃないかもしれないですけど」
その一言だけ、やけに小さかった。
店長は何も言わなかった。
代わりに、少しだけ笑って、
「じゃあ、潰さなくてよかったね」
とだけ言う。
「……はい」
音羽も、それ以上は言わない。
カウンターの上には、もう冷めかけたお茶。
昔話はそこで止まる。
でも、二人の間には、なぜか少しだけ温度が残っていた。
あの時からずっと続いているものの、名前だけがまだついていないまま。




