マウンテンパーカーと三度書き直した数字
閉店後の店内には、換気扇の低い音だけが残っていた。
片づけを終え、明日の仕込みを確認しながら、店長は休憩スペースの古びた椅子に腰掛け、スマホを覗き込んでいた。
「いやー、この包丁いいよねー。すごくよさそうだ。こんなの欲しいんだよなぁ」
画面を見ながら、少年みたいな顔をしている。
三十八歳にもなって、こういう時だけ妙に目を輝かせるのだから困る──と、向かいで帳簿をまとめていた音羽は、半ば呆れながら笑った。
「またですか、どれも同じに見えるんですけど」
「そんなこと、ないんだよ」
店長はすぐさま顔を上げる。料理の話と道具の話になると、妙に熱が入るのは10年変わらない。
「鋼材が違うから、重心も切れ味も全然違うし──」
「あーはいはい」
音羽は適当に手をひらひらさせる。
どうせ始まると長いのだ。
10年前、アルバイトとして入った頃は、こんな話を律儀に聞いていた。
けれど今では、途中で止めるタイミングも、どこまで聞き流しても怒られないかも、全部わかっている。
二人だけの店。
厨房に立つ店長と、ホールを切り盛りする音羽。
繁盛した日も、閑古鳥の日も、雨の日も、台風の日も、結局最後まで店を守ってきたのは二人だった。
気づけば10年。
もう家族みたいなもの──。
……いや、少なくとも自分は、そんな言葉だけでは片付けられないところまで来てしまっている。
「……あっそうだ、音羽さんはなにか欲しい物とかないの?」
不意に話を振られ、音羽は瞬きをした。
「そうですねぇ」
欲しいもの。
そんなの、ずっと前から決まっている。
だけど、それを真正面から言えるほど、自分は強くない。
だから少しだけ、冗談に紛れ込ませる。
「あっ、あれがほしいです」
「なになに、なにが欲しいの?」
店長は興味津々で身を乗り出した。
その無防備な顔を見るたび、ほんとうにずるい人だと思う。
「アタシが欲しいのは、店長……」
「ふぁ?」
店長の動きが止まった。
ぽかん、と口が半開きになる。
その顔があまりに面白くて、音羽は吹き出しそうになるのを必死でこらえた。
「……の、いつも着ているマウンテンパーカー。あれが欲しいです」
「あっ……」
店長の顔が、一瞬で赤くなる。
耳まで真っ赤だ。
普段は仕入れ先とも平気で値段交渉するくせに、こういうのだけ驚くほど弱い。
「あんなのが欲しいの? なっ、ならあげようか?」
しどろもどろになりながら言う。
音羽は、少しだけ視線を逸らした。
「いえ、私は自分用のが欲しいんです」
言ってから、わざと少し間を置く。
心臓が、うるさい。
「だって同じのを着れば、ペア……」
言葉の終わりは、小さくなった。
冗談として逃げられるくらいの声量で。
けれど、確かに聞こえるくらいには。
店長は固まっていた。
数秒。
たぶん人生で一番長い数秒。
「そっ……そうだね。やっぱりサイズが合わないよね。俺のじゃ……」
完全に動揺している。
そこじゃない。
そういう意味じゃない。
でも、そのズレた返しが、いかにもこの人らしくて、音羽は思わず吹き出した。
「ふふっ」
「え、な、何?」
「なんでもないです」
お互い、まともに顔を見られない。
音羽は帳簿に視線を落としながら、同じ数字を三回書き直していた。
ふと顔を上げると、店長もスマホの画面を見つめたまま完全にフリーズしている。
スクロールするのを忘れているその指先が、彼もまた上の空であることを物語っていた。
店の外では、シャッター通りを風が抜けていく。
10年、二人だけ。
変わらないようで、少しずつ変わっていたものがある。
だけど、それを口に出す勇気を、音羽は持ち合わせていなかった。
そしてきっと、向かいにいるもう一人にも。




