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これこれ、これが美味いんだよ

 夜7時。

 夜営業のピークとなる時間。

 カランカラン、と小気味よいドアベルの音が響いた。


「こんばんわ、店長」

「おう、いらっしゃい」


 入ってきたのは、週に三回は顔を出す常連の田中さん。

 その後ろに、少し緊張した面持ちの若い男が一人、続いていた。

 会社の部下らしい。


「ここ、俺の行きつけ。何食っても美味いぞ」

「へえ、落ち着くお店ですね」


 二人はカウンターの端に腰を下ろした。

 厨房では、店長が手際よくフライパンを振り、そのすぐ横で、店員の音羽が流れるような動作で皿を並べていく。


 その様子をじっと見ていた部下の男が、田中の耳元で小さく囁いた。


「……田中さん。ここ、ご夫婦でやられてるんですか?」

「ん? いや、違うよ」

「えっ、違わないでしょ。見てくださいよ、あの空気感」


 部下の男の視線の先では「当人たちにとってはごく普通の日常」が繰り広げられていた。




 店長がハンバーグを焼き上げる。

 音羽は、店長が口を開くよりも早く、ジャストのタイミングでソースの器を差し出していた。

 店長もそれを見ることもなく受け取る。


「ソース、ちょっと煮詰まってない?」

「直前に味見しました。完璧です」

「じゃあ大丈夫だな」


 二人の距離は、常に拳一つ分くらい。

 ぶつかりそうな狭い厨房なのに、お互いの背中や肩が当たりそうでも、避ける素振りすら見せない。

 お互いの身体のサイズと動線が、完全にパズルのように噛み合っている。



 テーブル席の客から「お姉ちゃん、ビールおかわり!」と声がかかる。

 音羽が「はーい、すぐ行きます」と笑顔でそちらへ向かった瞬間──。


 厨房の店長の目が、一瞬だけ、鋭く冷たい「男の目」に変わった。

 客が音羽の顔をじろじろ見ているのを、包丁を握ったまま、じーーっと無言で見つめている。

 音羽が厨房に戻ってきた瞬間に、店長は何事もなかったかのように「……次、オムライスな」といつものヘタレ顔に戻る。


「……めちゃくちゃ警戒してるじゃないですか、店長」

「だろ? だから俺はあの店員さんのこと、絶対”ちゃん”付けで呼ばないって決めてるんだ」



 そこへ、音羽が「お待たせしました、カニクリームコロッケです」と料理を運んできた。

 部下の男は、どうしても気になって、音羽に探りを入れてみることにした。


「あの……お二人のコンビネーション、本当に素晴らしいですね。まるで、長年連れ添ったご夫婦みたいですね」


 部下の男がしみじみと放ったその言葉に、


「「……へ?」」


 厨房の店長と、目の前の音羽の声が綺麗にハモった。

 次の瞬間、音羽が分かりやすくうろたえながら、お盆で顔を隠すようにして早口で捲し立てる。


「ふ、夫婦なんて、そんなこと絶対無いですから!」


「そうですよ」

 厨房の奥から、店長がどこか調子の外れた声で加勢した。

「そんなこと言うと、この子の婚期が遅れるだけなんですから。やめてあげてくださいよ」


「はっ? アタシの結婚は関係ないですよね」


 間髪入れずに睨みつける音羽に、店長はバツが悪そうに視線を逸らす。


 その様子を横目で見ていた部下の男は、手元のビールを握りしめたまま、隣の先輩へアイコンタクトを送った。

(……いや店長、自分で墓穴掘ってません?)

 田中がニヤニヤしながら目線で返す。

(ほらな?──“夫婦”呼ばわりより、“他の男と結婚する話”のほうに反応してるんだよ、あの二人)


 いたたまれなくなった部下の男は、引きつった笑みを浮かべてフォローを入れた。


「……お二人、ほんと仲いいですね」


「「全然よくないです!」」


 声を揃えてピシャリと言い放ち、二人は同時にぷいっと逆を向く。

 田中はそれを見て、「これこれ、これが美味いんだよ」と、嬉しそうにビールを煽った。






 その日の夜、閉店後。

 片付けを終え、いつものようにまかないを食べているときだった。


 音羽はフォークを持ったまま、向に座る店長を、ジト目で睨んだ。


「なんです? 店長は、私が早くお嫁に行った方がいいって思っているんですか」


 先ほどの「婚期」という言葉が、どうにもずっと胸に引っかかっていたのだ。


 店長の手が、ほんの少し止まった。

「……いや」

 そこまで言ってから、誤魔化すようにミートパスタを巻く。


「やめられると、店が回らなくなるからなぁ」


 相変わらず、素直じゃない。

「お前がいなくなったら寂しい」とも、「他の男のところに行くな」とも言えないから、店の経営という『建前』に逃げ込む。


 でも、音羽にはそれで十分だった。

 店長のその不器用な引き止め方が、たまらなく愛おしい。


 音羽はふっと口元を緩めると、大好きなブロッコリーを口に放り込んで、弾んだ声で言った。


「それじゃ、アタシはもっと店員さん頑張りますよ」


(だから、ずっと店長の隣にいてあげます)という言葉を、小さなまかないのお皿の裏に、そっと隠しながら。

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