第9話
十二月の初め、ポート・ヘイヴンには冬の気配をはらんだ冷たい小雨が降っていた。
海を見下ろす居間で、私は暖炉にあたりながら、厚手のショールのほつれを繕っていた。台所からは、ソフィア伯母様が林檎を煮る甘い匂いと、鍋の触れ合う音がしている。
外で、鉄の門扉が小さく軋んだ。
濡れた石畳を踏む重い足音が玄関へ近づき、ためらうような間を置いて、扉が二度叩かれた。
「どなたかしら。私が出ますわ、伯母様」
奥へ声をかけて、私は玄関の扉を開けた。
そこに立っている人を見た途端、息が止まった。
「……ロザリー」
かすれて、震えた声だった。
雨に濡れ、軒下で肩をすぼめている男は、別人のように痩せていた。私が仕立て直したあの上等な外套は、泥と煤で黒ずみ、袖口が擦り切れている。頬はこけ、目の下には濃い隈が貼りついていた。
何より目を引いたのは、外套の袖から覗く両手だった。ペンと手綱しか握ったことのなかった指が、赤黒く腫れ上がっている。指の腹には潰れた豆の痕が並び、かさぶたと泥が黒く固まっていた。
かつての婚約者、ヒュー・クラーク様だった。
「まあ、ヒュー様、そんなお姿で。今、温かいお茶を、奥で少し」
そこまで言いかけて、私は唇を閉じた。
習い性というのは恐ろしい。この人が惨めな姿で困り果てて現れた、それだけで、体が勝手に動こうとしていた。庇って、先回りして、手配して。何年も続けてきた役目を。
私は冷たい扉の縁を握り直し、一歩下がった。
「何のご用ですの、クラーク様。ここは私の伯母の家です。勝手に訪ねてこられては困ります」
他人行儀な呼び方に、ヒュー様は一瞬だけ傷ついたように眉を寄せた。けれどすぐに、見慣れた笑みを口元に浮かべた。甘えるような、それでいて上から見下ろすような、あの薄い笑み。
「相変わらず手厳しいな、ロザリー。こんな遠くまで僕を来させるなんて、君も随分意地を張ったものだ。でも、もういいんだよ。五月の手紙のことは水に流してあげる。僕も少し軽率だったと思っているんだ。だから、もう終わりにしよう」
水に流してあげる。
背筋がすっと冷えた。
「終わりに、とは何をですの」
「決まっているだろう。この馬鹿げた意地の張り合いだよ」
ヒュー様は濡れた前髪をかき上げようとしたが、震える指は額をかすめただけだった。私が少しも笑っていないことに、ようやく気づいたらしい。彼の声から、余裕が剥がれ落ちていった。
「……ロザリー、頼むから聞いてくれ。僕は本当にひどい目に遭ったんだ! 宿を追い出されて、親父にもらった時計まで売る羽目になった! 細工の価値も分からない古物商に、二束三文で買い叩かれたんだぞ! それだけじゃない、河岸で重い木箱を運ばされて、腰が折れそうなほど働いて……見てくれ、この手を! 平民の親方に怒鳴られて、小銭を恵んでもらう屈辱に、僕がどれだけ耐えてきたか分かるか!?」
泣き出しそうな顔で、彼は泥のついた両手を突き出してきた。
「イザベラにも、もううんざりだ! あんなわがままな女、王都に捨ててきた! だからロザリー、君のお父上と僕の父上に手紙を書いてくれ。ヒュー様は深く反省している、もう一度婚約を結び直したい、と。君が取りなしてくれれば、父上だって許してくれる! 頼む、助けてくれ! 当面の宿代と、帰りの馬車代を貸してくれ……!」
足をもつれさせて、ヒュー様は玄関前の石段に膝をついた。雨水の溜まった石の上に、両手をつく。
向かいの家の窓で、カーテンが揺れた。
人前ではいつも顎を上げていた人が、小銭と保身のために、濡れた石段に這いつくばっている。
(この人は、何も変わっていない)
膝をついていても、口にするのは自分の痛みと、自分の欲しいものだけだった。私の名前を何度も呼びながら、私のことは一度も訊かなかった。元気だったか、とさえ。
「お立ちになって、クラーク様」
自分でも驚くほど、静かな声が出た。
「お金はお貸しできません。私の父にも、クラーク男爵閣下にも、取りなしは一切いたしません。そして、あなたとの婚約をやり直すつもりは、少しもございません」
ヒュー様が弾かれたように顔を上げた。その目には、心からの驚きと狼狽しかなかった。
「な、なぜだ! 僕がここまで頭を下げているんだぞ!? 君だって、僕が戻ってくるのを待っていたはずだ!」
「待ってなどおりません。私はあなたに捨てられたのです。ですから、役場できちんと婚約を終わらせました」
「あんなもの、形だけの紙切れだろう! 君は僕を愛していたじゃないか! 僕が困っていれば、いつだって助けてくれただろう!?」
「ええ。助けておりましたわ」
逸らしそうになる自分の目を、私は彼に縫いとめた。
「そうしていれば、大事にしていただけると思っていたからです。でも、もう同じことはいたしません。その手が荒れたのは、ご自分で働かれたからです。時計を手放されたのは、ご自分で贅沢をなさったからです。今あなたが流している涙は、私を傷つけたことへの涙ではありません。ご自分がつらいから流しているだけです」
「ロザリー……!」
「お引き取りください。これ以上騒がれるなら、町の警備の詰め所へ人を走らせます」
扉を閉めようとすると、ヒュー様は手を伸ばしかけて、宙で止めた。
その顔に浮かんでいたのは、怒りではなかった。
どれほど身勝手を言っても、最後に弱った顔を見せれば、必ず折れてくれた女。その女の目の中に、もう自分の居場所がどこにもない。憎まれてさえいない。それを知った男の顔だった。
「……君は、本当に……僕を、捨てるのか……?」
「捨てたのは、あなたのほうですわ。さようなら、ヒュー様」
扉を閉め、閂を下ろした。
板の向こうで、しばらく荒い息遣いが聞こえていた。一度だけ、扉を叩く音がした。名前を呼ばれた。私は返事をしなかった。
やがて、水たまりを跳ね上げる力のない足音が、雨の坂を下っていった。
「……終わったの、ロザリー?」
奥から、ソフィア伯母様が湯気の立つカップを持って出てきた。林檎の煮汁を、お湯で割ったものだった。
「ええ。終わりましたわ、伯母様」
受け取ったカップが熱かった。冷えきっていた指先に、熱がじんわりと移ってくる。そこでようやく、自分の指が震えていたことに気づいた。
伯母様は何も訊かずに、ショールを私の肩にかけてくれた。さっきまで私が繕っていた、ほつれの残るほうだった。
翌朝、通いの女中が、市場で聞いてきた話をしてくれた。
波止場の荷揚げ場に、見慣れない痩せた男が日雇いを求めて並んでいたこと。腰が悪いのか、まともに荷を担げず、人足たちに笑われていたこと。夜は教会の軒下で寝ていたのを、雨の中で追い払われたこと。昨日、この家の前で膝をついていた男らしい、と向かいの奥さんが言っていたこと。
私は相槌を打って、その話を最後まで聞いた。それから、仕立て屋に頼んでいた冬の手袋を受け取りに出かけた。




