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あなたの恋人、私の婚約者と駆け落ちしました  作者: 九葉(くずは)


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第8話

 十一月の王都は、石畳の底から冷気が這い上がってくるような寒さだった。

 河岸の船着き場に北風が吹き荒れる中、ヒュー・クラークは息を切らしながら、荒縄で縛った木箱を荷車から下ろしていた。

 六月の末、金に換えられるものを一つ残らず手放してから、ヒューとイザベラは、かつて見下していた仕事で食いつないできた。


 イザベラは大衆食堂の皿洗い。ヒューのほうは、何をやっても長続きしなかった。酒場の下働きは、客に横柄な口をきいて三日で追い出された。商家の倉庫番は、帳簿の数字をごまかして小銭をくすねたのが露見し、一月で叩き出された。紹介状のない男を雇ってくれる店は、もう王都のどこにも残っていなかった。


 河岸の日雇いの荷運びは、最後に残った働き口だった。ここへ来て、まだ五日目だ。


「おい、新入り! 腰を落として膝で持ち上げろ、背骨をやっちまうぞ!」


 朝、年下の人足にそう怒鳴られた。泥だらけの若造に指図されるのが我慢ならず、ヒューは「指図するな」と言い返して、自分のやり方で持ち上げ続けた。


 昼を過ぎる頃には、腰が鉛のように固まっていた。一歩踏み出すたびに、背中に焼けた針を刺されるような痛みが走る。薄い作業手袋はとうに破れ、ささくれだった木箱の角が、素手の皮を容赦なく削っていく。手のひらの豆が潰れ、血と黄色い汁が滲んで、木箱の角を汚した。


 オークフィールドの屋敷の窓から、荷を運ぶ領民たちを眺めて笑っていたことを思い出した。字も読めない連中が、力任せにやる雑用だ、と。

 その雑用すら、自分はまともにこなせていない。



 夕暮れ、人足たちが親方の小屋の前に並んだ。髭面の親方が、帳面とヒューの首から下げた木札の刻み目を照らし合わせる。


「お前、昼から何べんも座り込んでたな。運んだ箱は決まりの半分だ。銀貨二枚と、銅貨四枚」

 無造作に差し出された小銭を見て、ヒューの声が裏返った。

「そ、そんなはずはない! 僕は朝からずっとここにいたんだぞ、まる一日分を」

「ここじゃ、いた時間じゃなくて運んだ荷の数で払う。文句があるなら明日から来なくていい」


 親方の太い腕と、背後に並んだ男たちの冷えた目に気圧されて、ヒューは口をつぐんだ。ここをしくじれば、もう行く当てがない。

 泥のついた硬貨をかき集め、ヒューは小さく頭を下げた。誰にでも顎をしゃくっていた男爵家の跡取りが、銀貨二枚のために、平民に頭を下げていた。



 足を引きずって戻ったのは、『灰雀亭』の屋根裏部屋だった。夏の終わりに、下の部屋の家賃が払えなくなってここへ移った。傾いた天井。隙間風の吹き込む窓。薪を買う余裕もなく、部屋の中は外の路地と同じくらい冷えていた。

 ぐらつく丸テーブルの向こうで、イザベラが小さな油ランプの明かりの下に座り込んでいた。


 食堂の冷たい水で脂まみれの皿を洗い続けた彼女の手は、赤黒く腫れ上がり、指の節があかぎれでぱっくりと裂けていた。乱れた髪を結い直そうとしているが、指がうまく動かない。木のピンが床に落ちて、転がった。

 扉の軋む音に、イザベラが顔を上げた。落ちくぼんだ目に、迎える温かさはどこにもなかった。


「……今日は、いくらになったの」


 おかえりより先に、金の話が来た。

 ヒューは上着を脱ぐ気力もなく、テーブルに硬貨を並べた。


「銀貨二枚と、銅貨四枚だ」

「それだけ? 家賃を取り分けたら、パンとスープの脂かすを買っておしまいじゃない!」

「文句を言うな! 腰が折れそうなほど働いてきたんだ! 君こそいくら稼いだ!」

「銅貨八枚よ! 朝から晩まで冷たい水に手を突っ込んで、怒鳴られ通しで、これだけ! あなたが王都で立派に暮らさせてやるなんて大嘘をつかなければ、こんな目には遭わなかったのに!」


 イザベラは銀貨を一枚つまみ上げて、自分の前に引き寄せた。家賃の分だ。残りの小銭を、指でヒューのほうへ押し返す。それきり何も言わず、毛布にくるまって背を向けた。

 やがて、規則正しい寝息が聞こえてきた。



 ヒューはがたつく机に向かい、反故紙の切れ端と鉛筆を取り出した。かじかんだ指に息を吹きかけながら、書きなぐる。


『ロザリー、僕が悪かった。あの女にそそのかされていたんだ。君の優しさがどれほど得難いものだったか、身に染みて分かった。父上への取りなしを頼みたい。僕をこの地獄から救い出してくれ』


 書き終えた文面を眺めて、ヒューは紙を破り捨てた。

 手紙を出しても、五月の時のように突き返されるだけだ。紙の上でなら、あの女は平気な顔で冷たいことを書いてよこす。


(……直接会えば、違う)


 昔のロザリーの姿が浮かんだ。

 こちらが少し不機嫌になれば顔色を窺い、金に困れば先回りして工面し、世間体を気にして決して責めなかった、あの従順な婚約者。


(僕がこんなにやつれた姿で目の前に現れて、涙の一つも見せれば、見捨てられるはずがない。昔みたいに「私が何とかいたします」と言って、父上に頭を下げてくれるに決まっている)


 滞在先なら分かる。婚約の折、向こうの親戚への挨拶状を、ロザリーに代わりに書かせた。その時の控えが、手帳に挟んだままになっていた。宛名を清書したのも、ロザリーだった。

 王都からポート・ヘイヴンまで、乗合馬車の運賃は片道で銀貨十枚ほど。

 食べる量を減らし、働けた日に少しずつ取り分けていけば、三週間で貯まる。十二月の初めには、港町へ行ける。


 ヒューは破った紙くずを握りつぶした。寝息を立てるイザベラの背中を見ながら、金を貯めていることは黙っておこうと決めた。知られたら、半分寄こせと言われるに決まっている。


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