第7話
十月のポート・ヘイヴンには、夏とは違う、冷たく澄んだ潮風が吹いていた。
波止場の停留所で待っていると、土埃をまとった大型の乗合馬車が軋みながら止まった。扉が開き、長旅にくたびれた乗客たちが次々と降りてくる。最後に、少し着崩した外套を羽織り、革の旅行鞄を提げたジョナス様が降りてきた。
片道丸二日の道のりだ。私に気づくと、彼は少し照れたように眉を下げ、早足でこちらへ来た。
「お待たせしました、ロザリーさん」
「長旅お疲れさまでした。ご無事に着いてよかったですわ」
四か月ぶりに聞く声は、手紙を読みながら思い浮かべていたより、少し低かった。
私たちはまず、高台のソフィア伯母様の家へ向かった。
ジョナス様は玄関先で丁寧に頭を下げ、マルタさんが持たせてくれたという木の実の焼き菓子を差し出した。伯母様はそれを受け取り、「遠いところをよくいらっしゃいました。宿は港のそばに取ってあるのでしょう。若い人同士で、ゆっくり町を歩いていらっしゃい」と、冷やかしの一つも言わずに送り出してくれた。
港へ下りる坂道で、私は気になっていたことを訊いた。
「リリーさんは、お留守番をさせられたと怒っていませんでした?」
「まさか。半月前から、ちゃんとあいつの予定を聞いてありましたよ」
ジョナス様は苦笑しながら、歩幅を私に合わせてくれた。
「ちょうど今週、親戚の家で従姉妹たちと林檎の収穫を手伝う約束があったんです。泊まりがけでね。マルタも留守の間は家に泊まり込んでくれる。段取りを全部並べて見せて、ようやく『行ってきていいよ』とお許しが出ました」
「お許しが必要でしたの」
「必要でした」
大真面目な顔で言うので、私は笑ってしまった。
旅行鞄を持っていないほうの彼の手が、すぐ隣で揺れていた。坂の下に着くまで、私はその手が気になって仕方がなかった。
昼どきの市場は、人の声でごった返していた。魚屋の前を通りかかると、女将さんが私に気づいて太い声を張り上げた。
「おや、ロザリーさん! その男前は誰だい? 王都からのお客かい?」
「こんにちは、女将さん。故郷の、古いお友だちですの」
「へえ、お友だちねえ」
女将さんは私とジョナス様を見比べて、にやりと笑った。
「ちょうどいい。この前教えた秋の白身、今日のは一段と脂がのってるよ。二匹包むかい?」
「ええ、お願いします。今夜、伯母様の家で三人でいただきますわ」
油紙に包まれた魚を受け取り、小銭を渡す。ジョナス様が、目を丸くしてそれを見ていた。
「すっかりこの町の人ですね。俺の知らないロザリーさんだ」
「ええ。自分で魚を選んで、夕飯のおかずを自分で決める暮らしですもの」
少し胸を張ってみせると、彼は眩しいものでも見るような顔をした。
防波堤のそばの屋台で、揚げたての魚のフライと温めた林檎酒を頼み、木のベンチに並んで座った。
串に刺さったフライを持ち上げて、私は訊いた。
「この魚は、ちゃんと魚に見えます?」
七月、初めて自分で釣った魚の絵を便箋の隅に描いて送ったら、『新しい長靴を買ったのですか』と返事が来たのだ。
ジョナス様はフライを口へ運びかけて、手を止めた。
「あれは申し訳ありませんでした。でも、尾びれが踵に見えたんです」
「もういいです。あの手紙は、帰ったら燃やしてくださいね」
「それは嫌です」
あまりに即答だったので、私は彼の顔を見た。
「机の二番目の引き出しに、全部しまってあるんです。一通でも欠けるのは嫌なので」
私はフライの尻尾をかじるふりをして、緩んだ口元を隠した。私も同じだった。彼の短い返事も、雨で端の滲んだ封筒も、一通も捨てられずにいる。
「では、長靴に見えたことは忘れてくださいな」
「努力します」
笑い声が途切れると、急に静かになった。
便箋の上なら、冗談も近況もいくらでも書けたのに。肩が触れそうな距離で、風に揺れる彼の髪や、少し日に焼けた横顔を見ていると、何を言えばいいのか分からなくなる。目が合うたびに、どちらからともなく咳払いをして、海のほうを向いた。
「……その浅葱色の服」
波の音の合間に、ジョナス様がぽつりと言った。
「よく似合っています。停留所で、すぐにあなただと分かりました」
「故郷では、一度も着たことのない色ですのに?」
「ええ。だから、来てよかった。町にいたら、この色のあなたは見られなかった」
彼は私から目を逸らさずに言った。私はもう、魚の串で口元を隠すこともできなかった。
「……ありがとうございます。とても気に入っているんです、この色」
頬が熱くなって、私は冷たい潮風のほうへ顔を向けた。
食べ終えてから、夕暮れの防波堤を並んで歩いた。水平線の向こうで、沈みかけた夕日が波の頭を橙色に染めている。
歩くうちに、揺れていた互いの指先が、かすかに触れた。
ジョナス様の足が止まった。つられて、私も立ち止まる。
夕日のせいか、ほかのせいか、彼の横顔は赤かった。少し目を泳がせてから、彼は私のほうを向いた。
「ロザリーさん。手を、繋いでもいいですか」
冗談に紛らわせるでもなく、言葉で訊いてくれた。差し出された右手に、私は黙って頷き、左手を重ねた。
骨ばった、少し荒れた大きな手が、私の指を包んだ。痛くない強さで、けれど簡単にはほどけない強さで、指が絡んだ。
「六月に発ってから、もう四か月ですね」
「ええ。来年の六月まで、あと八か月ありますわ」
ジョナス様は海を見たまま、指に少し力を込めた。
「……早く帰ってきてほしいと言ったら、困らせますか」
喉の奥が、かっと熱くなった。
「困りますわ。……でも、言ってくださらなかったら、少し寂しかったと思います」
彼は小さく息を吐いて、口元を緩めた。
「約束を打ち切って連れ帰る気はありませんよ。あなたのこの一年を、俺のわがままで邪魔したくない。ただ、冬にもう一度来てもいいですか。雪が深くなる前に」
「ええ、ぜひ」
繋いだ手を、私からも少し握り返した。
「冬の魚は、今よりもっと身が締まって美味しいそうですから。お待ちしていますね、ジョナス様」




