第6話
王都の南、路地裏の安宿『灰雀亭』の一室には、初夏の湿気と、隣の部屋の煮炊きの匂いがこもっていた。
薄汚れた木綿のシーツの上に、淡い桃色の絹のドレスが一着、広げてある。
イザベラ・ハワードは、爪の欠けた指先でその布地を撫でた。
『オテル・ド・ロワイヤル』を追い出されて一月あまり。銀の小箱も、真珠の耳飾りも、替えの靴も、一つずつ古物商へ持ち込んで、この安宿の部屋代に換えてきた。それも、昨日の夕方で尽きた。
金になりそうなものは、もうこのドレスしか残っていない。
イザベラはドレスを丁寧に畳んで布に包み、埃っぽい通りへ出た。
下町の裏通りにある古着屋の軒先には、擦り切れた作業着や色褪せた上着が何列もぶら下がっていた。薄暗い店の奥から、丸眼鏡の中年の女が出てきた。
「買い取りかい」
「……ええ。上等な絹ですの。一度しか袖を通していませんわ」
カウンターの上で包みをほどく。柔らかな桃色が、薄暗い店の中で場違いに明るかった。
去年の収穫祭の夜、これを着て鏡の前に立った時のことを思い出した。
これが着てみたいの、ねえ、ジョナスなら何とかしてくれるでしょう。そう甘えると、ジョナスは「無茶を言うなよ」と苦笑して、それでも自分の小遣いを切り詰め、町いちばんの仕立て屋に頼み込んでくれた。祭りの広場で、娘たちが羨ましそうにこちらを見ていた。隣でジョナスが、少し照れくさそうに笑っていた。
店主は慣れた手つきでドレスを広げ、縫い目と裏地を順に確かめていった。意地悪く目を細めるでもない。品物を見る目だった。
「裾の裏に泥はねの染みがあるね。それに、この襟ぐりの飾りと袖の膨らみ。去年の地方の流行りだ。王都じゃ誰も着やしないよ」
「そんなはずはありませんわ! これは王都から取り寄せた絹で」
「布がいくら上等でも、仕立て直さなきゃ着られない服は売れないんだよ。布地の値段で、二千五百セル。嫌なら持って帰りな」
二千五百セル。
あの宿で、紅茶と焼き菓子を一度頼めば消えてしまう額だった。
イザベラは息を吸い込んだまま、吐けなくなった。この服に値打ちがないと言われたのではない。お前に値打ちがないと言われた気がした。
「……持って帰ります」
そう言って手を伸ばしたのに、指先は絹の裾に触れたまま動かなかった。
持って帰って、どうするのか。宿の主人は、今日中に部屋代を払わなければ荷物ごと放り出すと息巻いている。財布には銅貨が三枚。今日の部屋代の、十分の一にもならない。
店主は黙って待っていた。その平らな目に耐えきれず、イザベラは唇を噛んだ。
「……売ります。お金を、ください」
頭を下げ、差し出された薄汚れた紙幣と銅貨をかき集めた。
帰り道、大通りのパン屋で、昨日の売れ残りの固い黒パンを一つ買った。
部屋の扉を開けると、ヒューが戻っていた。
上着を脱ぎ捨て、埃だらけの靴のまま寝台に腰かけている。仕事を探しに出たはずの顔には、苛立ちと疲れがべったりと貼りついていた。
「……ヒュー様。お仕事は、どうでしたの」
恐る恐る尋ねると、ヒューは舌打ちした。
「話にならない! 商家の帳場で雇えと言ったら、紹介状はあるかときた。ないと言ったら、それなら荷運びか、酒場の皿洗いだとさ。男爵家の跡取りに荷運びをしろだぞ。断ってやったよ。どいつもこいつも無礼な奴ばかりだ!」
断ってきた。
その一言で、イザベラの中で張りつめていた糸が切れた。
「断ってきたですって!? 男爵家の跡取り? そんなもの、王都では何の役にも立たないって、あの宿を追い出された時に思い知ったはずでしょう!」
「何だと!?」
「王都で立派に暮らさせてやると言ったから、私はついてきたのよ! それなのに、ご自分では何ひとつ工面できないなんて!」
「黙れ! 君こそ、父親から持参金の前借りができると言って僕をその気にさせたじゃないか! あのドレスはどうした、いくらになった!」
「二千五百セルよ! たったの二千五百セル! あの宿の一晩分にもならないわ!」
顔を真っ赤にして、相手の無能と身勝手を罵り合う。魂の自由だの真実の愛だの、手紙に書き連ねた言葉の残骸が、狭い部屋の床に散らばっていった。
やがて怒鳴る気力も尽き、重い沈黙が落ちた。ぐう、と情けない音が、湿った部屋に響いた。
イザベラは荒い息のまま、黒パンをテーブルに置き、錆びたナイフで二つに切った。乾いたパンは固く、ぼろぼろと崩れて、大きさの違う二切れになった。
ヒューは迷わず手を伸ばし、大きいほうをつかんで口へ運んだ。
残されたのは、小さくて、端の焦げた一切れだった。
イザベラはそれを見つめたまま、動けなくなった。
(……どうして)
町の小さなカフェを思い出した。
ジョナスはいつも、焼きたてのパイの大きいほうを彼女の皿に載せた。お前がいちばんうまそうなところを食えよ、と笑って、自分は固い端のほうをかじっていた。リボンをねだれば頭を抱えながら買ってくれたし、わがままを言えば困った顔で許してくれた。
ジョナスなら、こんな惨めな思いはさせなかった。
イザベラは小さいほうのパンを手に取った。乾いた塊が喉につかえた。涙で滲んだ目のまま、それを無理やり飲み込んだ。
向かいでヒューが、自分の分を食べ終えて、物足りなさそうに指を舐めていた。




